68 子どもの視点が欠けている

2010.10


 学校教育というものは、改革すればするほど悪くなっていくようである。それは、何も改革をする人間がバカだからとか、悪意に満ちているとかいうことが理由ではない。むしろその逆である。優秀で善意に満ちている人たちが改革案を作っているからなのだ。

 先日もテレビで、現行の40人学級を35人にすべきだという提言があったということを報じていた。少人数学級にして、一人一人に目が行き届く授業を、というのだ。この提言のどこにも問題はなさそうに見える。クラスの人数は少ないほどいいと誰でも思うだろう。しかし、この「誰でも」は、親や教師といった大人で、決して児童・生徒ではないということを忘れてはならない。優秀で善意に満ちている人たちというのは、自分が子どもだったころのことはすっかり忘れているものだ。

 北関東の方の学校で、少人数学級を先取りして実行している学校が紹介され、15人ぐらいのクラスもあると紹介するテレビ画面をみながら、家内が「いやだなあ、こんなの。」とぽつりと言った。家内からすれば、こんなに少人数で、一人一人に目が届くクラスなんてごめんだ、できるだけ大人数のクラスの中で目立たないでいたい、というのだ。

 確かに、もし仮に15人のクラスだったら、45人のクラスのときより授業で質問される回数は3倍に増すだろう。親からすれば、そのほうが学力が上がるだろうと思うから「ありがたい」のだろうが、子どもからすれば「めいわく」以外の何ものでもない。もちろん自分の好きな科目ならその限りではないにしても、嫌いな科目だったら、絶対に嫌だろう。いや、科目だけではない。もし嫌いな先生の時間だったら、目も当てられない。

 大人数のクラスだったら、前の生徒の陰に隠れて弁当をこっそり食べたり、ぼんやり窓の外の風景を眺めたりすることだってできるのに、少人数ではそれもできない。「目が行き届く」ということは、子どもにとっては、必ずしもありがたいことではないのだ。

 こうした視点が、教育論議には欠けている。

 よかれと思って、クラスの人数を減らす。すると、教師の目の届く教室で息の詰まる子どもが出てくるのだ。そしてこの「よかれ」と思ってする改革の多くは、教育の効率という観点に立っている。いわゆる民間活力の導入などは、教育を企業の論理で改革しようというものだから、必然的に「効率」が基準となるわけだ。これが結局、教育を殺すことになる。


Home | Index | back | next