66 スッピンの「本」

2010.10


 文章でも絵でもいいが、何かをプリントした紙を数枚あるいは数十枚を束ねて、その端をホッチキスで閉じるか糊で貼り合わせれば冊子というものになる。更に、これに表紙をつければ、一応「本」と言えるものが完成する。

 コンピューターとプリンターが劇的に進歩した現在では、きれいにレイアウトされたプリントは素人にも簡単にできるようになった。ただ、製本だけは、なかなかプロ並みにはいかない。だから簡単には「本」は作れない。たとえ、製本を何とかクリアーしても、その後の、流通、つまり書店に置いてもらって売るということになるとハードルが俄然高くなる。

 自分の「本」を出版して、書店にそれが並ぶことを夢見る人は多かった。もちろんぼくもその一人だった。つまり紙の「本」が最高の形として夢見られてきたということだ。

 けれどもここのところ電子書籍化を自分でやっていて特に感じるのは、本を解体していく過程で、本がどんどんとその本質をあらわにしていくということだ。まずカバーをはずし、表紙をはぎ取る、厚い本は真ん中で真っ二つに切り離す。次に背を裁断する。そうすると本は単なる印刷した紙の束になる。そしてできあがったファイルをiPadで読むと、そこにはもう「ことば」しかない。

 手に持った時の「本」の重み、表紙の紙の質感と手触り、「本」から立ち上る匂い、活字の姿、そういったものすべてがそこでは消失してしまっている。わずかに活字の姿は残るが、拡大できたり縮小できるという点で、もう紙の本の活字とは別物となってしまっている。

 こうしたことをナゲカワシイことだと感じる人もいるだろう。しかしぼくには、こうなることでようやく「ことば」が解放されたと感じる瞬間もあるのだ。装丁には興味を持っているが、しかしその装丁が「本」の本質をゆがめていることだってあるのではないかと思ってしまうのだ。

 単なる紙の束になっても、iPad上で無味乾燥なことばだけになっても、それでも読む者を引きつけてやまないものだけが、ほんとうの「本」である。スッピンでも美人な人が本当の美人なのと同じことだ。厚化粧を落とした「本」が急に惨めな姿をさらすこともある。薄汚い本が、iPadの上で急に輝きだすこともある。すべて「ことば」の力である。

 電子書籍化した「本」を読んでいると、作者の声が聞こえるような気がすると誰かが言っていたが、至言である。この実感を大事にしたい。


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