65 「元気いっぱい」にはなれません

2010.10


 何事にも前向きで、元気いっぱい、生きることをめいっぱい楽しんでいるように見える人がいると、どうも鼻白んでしまう。自分も元気をもらったような気がすると言って、そういう人に出会えたことを喜ぶ人も多いようだが、どうもそういう気になれない。どうしてなのだろうか。年をとって、ひがみっぽくなったということだろうか。

 年をとっていなくても、ひがみっぽい人間というのはいる。

 大学生の頃、福原麟太郎という英文学者のエッセイに、自分は人並み優れた人を見るととても嬉しくなると書いてあったのを読んで、ひどく驚いたことがある。その頃から、ぼくはひがみっぽかったわけだ。というより劣等感の強い人間だったということかもしれない。とてもかなわないような人がそばにいると、つい自分と比較してしまって落ち込むというのがぼくの通例だったから、福原先生の言葉を読んで、この人はいったいどういう人なのだろうと不思議に思ったのだった。

 もっともいくらひがみっぽい人間でも、イチローや石川遼をみて落ち込んだりはしないだろう。これはハナから勝負にならないからで、やっぱりひがみっぽい人間が落ち込むのは、中途半端に優れた人に接したときであろう。そう思えば、福原先生の言っていた優れた人というのも、イチロー並の人のことだったのかもしれない。そうならば、それほどびっくりすることはなかったことになる。

 いずれにしても「何事にも前向きで……」程度の人というのは、ごく身近にいる中途半端に優れた人だということになる。そうなると、ひょっとしたら自分もそうなれたかもしれないわけだから、ついひがんだり、落ち込んだりすることになるわけだ。

 ひがんだり、落ち込んだりするということは、精一杯よく言えば、「向上心がある。」ということでもある。しかし、これも精一杯よく言えばの話で、俗に言う「ひがみ根性」が「向上心」の同義語であるはずはない。しかし、そもそものくせ者は、この「向上心」というヤツなのではなかろうか。

 ただ闇雲に向上心があればいいというものでもない。何に向かっての向上心かが問われねばなるまい。

 それと同様に、ただ闇雲に「元気いっぱい」でもしょうがない。その「元気」で何をするかが問題だろう。その「何か」がほんとうに大事なことなら、別に「元気いっぱい」でなくてもできるはずだ。

 ヒーヒー、フーフー言いながら、何かを懸命にやっている人のほうが、ぼくは共感できる。


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