64 持つことと持たざることの狭間で

2010.10


 汗牛充棟ということばがある。「ひっぱるには牛馬が汗をかき、積み上げては家の棟木(むなぎ)にまで届くくらいの量の意から、蔵書が非常に多いことのたとえ。」(日本国語大辞典)という意味である。いかにも中国人らしい大げさな表現だが、本の重さを常々実感するものとしては、必ずしも非現実的とも思えない。

 こうした蔵書に囲まれた生活に幼い頃から憧れつづけ、ある程度それを実現もしてきたのだが、それと同時に、兼好法師や鴨長明といったような中世の隠者たちの、方丈での簡素な生活のあり方にもあこがれてきたこともまた事実だ。

 何もかも捨てて、数冊の本とともに、自然の中に隠れ住むことへの誘惑と、数千、数万の蔵書に囲まれてまるで本の紙魚のように暮らすことへの憧れ。このまったく逆方向にようにみえる生活のあり方は、しかし、よく考えてみると、実はほとんど双子のように似ているともいえる。どちらも世間とか、面倒な人間関係とか、権力闘争とかそういったどろどろしたものからひたすら逃げたいという願望に他ならない。牛が引っ張っても動かないほどの本があろうと、本棚に3冊しか本がなかろうと、ほんとうはどっちでもいい。ただ、世間から離れて暮らしたい。それだけのことだったのではなかろうか。

 「世間から離れて暮らしたい。」とはどういうことか。わかりやすくいえば、「金とか地位とかいった世俗的な価値から自由になりたい。」ということになるだろうか。あるいは、そうした「自由」がどこにあるのかを知りたい、それを知ることのできる「本」を見つけたい、ということなのかもしれない。更に言えば、その「本」とは、結局のところ「ことば」なのだ。

 孔子は、「朝に道を知れば夕に死すとも可なり。」と言い、聖書のヨハネ福音書は「はじめにみことばがあった。」と冒頭に記す。孔子の「道」は「みことば」と置き換えてもいいだろう。マタイ福音書で、イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる。」とも言っている。

 この「ことば」とはいったい何なのか。それは決してすぐに分かるようなものではない。だからこそ孔子も、それが分かったらもう死んでもいいとまで言ったのだ。

 汗牛充棟も草庵の方丈も、ただそのために方便でしかない。

 日暮れて道遠し……。道はますます霞んで見えにくくなり、ことばはどこにあるか依然として分からない。


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