51 庭いじり的人生

2010.7


 ガーデニングというとオシャレなのに、庭いじりというと何かジジクサイ。でも、ガーデニングが趣味ですなどとは言う気になれない。ちょっと庭をいじっておりまして、ぐらいにしておきたい。庭いじりというのは、趣味というより一種のクセのようなものだ。つい、いじりたくなるのである。

 「いじる」というのは、『日本国語大辞典』には、「なぐさみに、収集物や器械などをもてあそぶ。」「はっきりした方針や目的もなく、または部分的に、物事にあれこれと手を入れて変えたり動かしたりする。」という意味だとある。前者の意味のところに「庭をいじる」という用例が載っているが、むしろ後者のほうがぴったりではなかろうか。

 ガーデニングには「はっきりした方針や目的」がありそうだが、「庭いじり」にはおそらくそんなものはないだろう。「部分的にあれこれと手を入れて変えたり動かしたり」という説明もなかなかいい。

 家での仕事に疲れると、庭に出る。もっともこの季節になると、あっという間に蚊の餌食になるから厄介だが、とにかく庭に出て、どこかをいじる。あるいは、見る。

 この「見る」というのが実は大切なことで、専門的には「目肥やし」という。誰が言いだしたか知らないが、茶道のことばのように含蓄のある言葉だ。

 年上の知人から送って頂いた風船かずらの種が芽を出して、どんどん伸びている。いったいどんな花を咲かせるのだろう。去年採取した朝顔の種を撒いたら、これも元気に芽を出して来て、何色の花を咲かせるのか楽しみだ。3年ほど前、庭のジメジメした一角にミニポットで買って来た斑入りのアシを植えたら、それが所を得たとばかりに大繁殖して、背丈も1メートルを超えそうな勢い。下手をすると庭が一面のアシ原になってしまいそうだ。父が大事に育てていたシュロチクがどうも元気がない。これはぼくが中学生の頃から水やりを時々していたのだから、かれこれ50年近くも生きていることになる。枯らすわけにはいかない。

 などと、まあ、まことにとりとめがない。楽しいというほどのことではないが、「はっきりした方針や目的」がないから、疲れない。

 マザー・テレサのような「方針と目的」がはっきりとした一直線の人生の素晴らしさはよく分かっているが、こんなふうに何の「方針と目的」もなく、あちこちいじりながら生きるというのもいいなあと思っている。というか、ぼくにはそんな生き方しかできそうにない。


 

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