46 「退屈」という問題

2010.5


 若いころは、人間は何のために生きるのか、がとても重要な問題だと思えた。今は、どうやったら人生を退屈せずに生きていくことができるのかが何よりも重要なことに思える。

 いや、実際には、重要なことに思えるといったような暢気な問題ではなく、我が身にさし迫った、まさに喫緊の問題なのだ。それに比べれば、若いころの問題などは、単なる観念的な遊びに過ぎなかったとすら言える。「何のために生きるのか。」が分からなくても、現実には生きてきたのだし、生きてこざるをえなかった。そして現在に至っても、人が何のために生きるのかについては、ちっとも分かっていない。それでも、とりあえず困ってはいない。

 しかし喫緊の問題たる、「どうしたら退屈せずに生きることができるのか。」は、日々の具体的な問題である。しかもこの問題にはひとつの答えなどあるはずもなく、日々その瞬間その瞬間に、解決しつつ生きていかねばならない問題なのだ。

 もちろん、退屈したってちっとも構わない。人生は退屈だとうそぶいて生きるのもひとつの立派な生き方だろう。けれども、そういう生き方ができるというのは、退屈を楽しむことで、退屈をしないで済むというかなり高等な技術を身につけているということではなかろうか。

 「あ〜あ、退屈で、退屈で、あくびが出る。」と言いながら大きなあくびができる人間は、実はちっとも退屈していないのである。落語の『あくび指南』では、あくびの仕方を指南するという一風変わった人間が出てくるが、考えようによっては、彼は「退屈の楽しみ方」を指南しているのかもしれない。能天気そうな落語が人生の真実を語るいい例だろうか。

 それはそれとして、ほんとうの退屈というのは、もっと病的なもので、鬱屈といったほうがいいのかもしれない。何をしても、何を見ても、ちっとも面白くない。もう生きているのも嫌になる。そういった気分は、うつ病のひとつの徴候だろうが、健康な人間だって、一日のうちには、そういう気持ちに何度かはなるものだろう。しつこく顔にまつわりついてくる蚊のように、それはぼくらを苛立たせる。その蚊を、一匹一匹叩いてつぶしていかなければ、ぼくらは血を吸いとられて貧血になってしまうだろう。

 だからこそ「どうしたら退屈せずに生きることができるのか。」が大きな問題となるのだ。どうしたら、このしつこい蚊を叩きつぶせるのか。処方箋はない。日々の格闘があるのみだ。


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