35 あっちの方

2010.3


 金曜日、東京での仕事を終えて家に帰ると、家内が、お母さんが骨折したんだってと言う。そうかあの時か。朝の10時頃、母から電話がかかってきた。家の電話はナンバーディスプレイだからすぐに分かる。受話器をとったが、変な音が聞こえただけで切れてしまった。大事な用件ならまたかかってくるだろうと思って、折り返しの電話はしなかったのだ。

 左手の小指を骨折したらしいの。だからまあ大丈夫よ。でも、びっくりしたわよ。夕方、電話があって、指を骨折して病院に行ったんだけど、まだ痛いからこれからまた病院に行くと言うから、それじゃすぐに車で行きますから待っててくださいと言ったら、大丈夫、近くの病院だから、と言うの。え? 歩いて行けるんですかって聞いたら、折ったのは足の指じゃなくて、手の指だって言うんだもの。それじゃあ、歩いて行けるわよねえ。私は、てっきり足の指だと思ったわよ。

 とにかく母の話は分かりにくいのだ。翌日電話をすると、転んだ拍子に玄関のドアに指先をぶつけた。痛いと思って見ると、小指が「あっちの方」を向いていて、血がだらだらと流れていた。その指でお前のところに電話をしたが、もう電話も血だらけさ。そうだそれより、近所の人に助けを求めたほうがいいと思って、Kさんに電話をして来てもらって、病院についていってもらった。痛み止めの薬を出してくれなかったので、また夕方に行って、もらってきた。曲がった指を引っ張ってはめたんだから、まあ痛いなんてものじゃなかったよ。まだズキズキするけど、たいしたことはない、というようなことだった。

 話にどうも不自然なところもあり、百聞は一見にしかずで、日曜日に母の家に行った。左手の指に包帯はしているが、ギブスのようなものははめていない。母はびっくりするほど激しい身振り手振りで、怪我したときの状況を説明した。それにしても、足でなくてよかったね、ということで帰ってきた。

 それから数日して電話があった。「おもしろいねえ。いつもの整骨院に今日行ったらさ、折れてないらしいよ。折れてればもっと腫れるはずだって。脱臼じゃないかって。」「だって、病院でレントゲン撮ったんでしょ?」「ああ。」「で骨折してます、って医者が言ったんでしょ?」「いや言わなかった。」「じゃあどうして骨折だって……」「だってそう思うでしょ。『あっちの方』向いてんだから。」

 いやはや、事実を知るには時間がかかるものである。


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