28 安心立命はどちらに?

2010.1


 可能無限なら、「源泉掛け流し」の湯のように日常にあふれている。それでも、私たちが退屈してしまったり、絶望を感じたり、自分の人生など取るに足らない、大したことは起こらないと思ってしまうのは、生の中に満ちあふれている可能無限をうまく生かすことができないからである。( 茂木健一郎『疾走する精神』)

 「可能無限」というのは、茂木によれば「次がある」という意味での「無限」のこと。人間というのは何をしても、常に「次がある」という意識を持つことで、実際には有限のこの人生をあたかも「無限」であるかのように錯覚して生きることができる、というのだ。

 本来有限であるはずの人生を安心立命の中に生きられるのは「次がある」という可能無限の認識ゆえである。もし、「いつかは次がなくなる」という結末を常に意識していなければならないとしたら、どんなに味気ないことであろう。可能無限の中に浸る。それは、ひとつの甘い忘却であるかもしれないが、その忘却ゆえに無限の幻想を抱くからこそ、人間はゆったりと精神活動を営むことができるのである。(同書)

 こうした茂木の考え方は、ずいぶんと魅力的だし、そうかぼくらにはまだまだ次があるんだ、無限の可能性があるんだと励まされもする。そして可能無限の中に浸って、「次がなくなること」を忘却すれば、日常はまぶしく輝くはずだという茂木の言葉に救われる思いもする人もいるだろう。

 けれども、甘い忘却に浸って生は楽しい楽しいと言っていられるのは、精神の躁状態ではないのか。茂木はその躁状態を持続させることができるのかもしれないが、普通の人はそうはいかない。「次」は必ず、確実に「なくなる」からだ。

 先日、カウントダウンコンサートを前にしたさだまさしがテレビのインタビュー番組で、「ぼくはいつもこれが最後のコンサートだと思っています。ぼくはいつ死ぬかわからないんですから。」と言っていた。そして「もうこの年になるといつ死んでもいいんです。でも、できれば、誰かのために死にたいなあ。」としみじと言っていた。こんなことを、こんなふうに何の嫌味もなくごく自然に言えるのは本当にすごいことだ。

 常に「次がなくなる」という意識を持っているさだまさしの人生が、味気ないとどうして言えるだろうか。茂木の言葉のどこか浮ついた騒々しさに比べて、さだの言葉の何という静けさ。果たして安心立命はどちらにあるのだろうか。

 


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