22 悲しき勤勉

2009.12


 先日職場の若い教師と話をしていて、ぼくの今までの教師生活をだらだらと語っていたら、「先生は、キンベンなんですねえ。」と言われた。家に帰って家内にそのことを言うと、「キンベンなんて、最近聞かない言葉よねえ。」と、話の内容よりもその言葉を珍しがっていた。

 勤勉。確かに最近めっきり聞かなくなった言葉だ。言葉にもはやりすたりがある。ぼくらが小学生の頃なら、どの学校にも二宮金次郎が薪を背負って本を読んでいる銅像があったものだが、あれはまだどこかの小学校に残っているのだろうか。残っているなら見てみたいものだ。

 それにしても、勤勉とは意表をつかれる言葉だった。

 中学、高校と、出来てそれほど時間の経っていない栄光学園という学校に学び、そこのグスタフ・フォスというドイツ人校長から叩き込まれたのは、「やるべきときに、やるべきことを、しっかりやる」という精神だった。もとになるのはラテン語の標語で、イエズス会というカトリックの修道会の精神のひとつらしいが、ラテン的な色彩の濃いカトリックの教えにはどこかそぐわない、いかにもドイツ人が好みそうなこの標語を、生粋のドイツ人の口から繰り返し聞かされたために、その言葉が体じゅうの細胞ひとつひとつに埋め込まれてしまったのだろうか、いまだにそれが抜けきらない。

 そういうドイツ的な生真面目さがどうにもやりきれなくて、ぼくは高校を卒業してから、何とかしてそれとは逆の方向へ向かおうとしたものだ。同級生にはそれこそこの標語を忠実に実行したのか、官僚のトップにまで登り詰めた者もいるが、ぼくはいつもそういう人たちとは逆の方を向き、いいかげんな人生を歩んできたつもりだった。日陰の道とは言わないが、少なくとも社会的には実にぱっとしない人生を歩んできたことは確かだ。

 それなのに勤勉な人だと言われてしまう。なんか中途半端だなあと思ってしまう。校長がドイツ人ではなくて、イタリア人だったら、もっと違った教育を受けて、もっともっと楽しい人生になったのかもしれないなどと思うのも老いの繰り言か。

 志ん生の落語は大好きだが、その実生活におけるノンシャラン(無頓着で、のんきなさま。)なエピソードを読むたびに、こういう無責任さにはついていけないなあとつい思ってしまうのも、ぼくの細胞に埋め込まれてしまった勤勉さ故なのかもしれない。

 あ〜あ、キンベンかあ……。せめて晩年はちゃらんぽらんに生きたいものだ。



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