19 いずこも同じ

2009.11


 教師になって今年で38年目になるが、やはりこれが天職だったとはとうてい思えない。といって他にどのような生き方があったのかと問われても、答えようもないのだが。

 だいたい教えること自体がめんどくさい。もちろん仕事である以上は、ちゃんと教えようとは思っている。めんどくさいからこそ、あんまり面白くないからこそ、仕事なのだともいえるのだし給料ももらえるのだという理屈もよく分かっている。しかし、どうにもやりきれない。

 孔子は、「憤せざれば啓せず、ひ(*1)せざれば発せず。」(分かろうとしてわくわくしているのでなければ、指導しない。言えそうで言えず、口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。)と言っているが、そんな贅沢は現代の教師には許されない。分かろうとしてわくわくしている生徒が皆無だというわけではない。けれども、どうでもいいや、興味ないもんと思っている生徒のほうが多いに決まっている。ひょっとしたらほとんどかもしれない。一生懸命ノートをとっている生徒だって、試験の成績のためだけなのかもしれない。そして、そういう生徒たちの気持ちも分かる過ぎるほどよく分かるので、何だかめんどくさくなってしまうのだ。

 孔子先生はいい気なものだ。教えるということ自体に疑問を持っていない。そのうえ相手をえり好みして恥じることがない。

 作家と教師と両立すると思っている人達に水を差すようで申し訳ないが、それはじわじわと栄養を失って身体が損なわれているのに気がつかないようなものである。人生に不可欠な時間というものを失ってしまうからだ、ということに気がつかないのだろうか。(*2)

 画家の小泉淳作はこう書いているが、これもまたいい気なもので、画業だけでは食えないから教師をやらざるをえない画家は、そんなことは百も承知で教師稼業にいそしんでいるのだということに気がつかないのだろうか。

 ただ、人に教える暇があったらもっと絵の勉強をしたいという小泉氏の思いは十分に理解できるのだ。

 ぼくの前にずらりと並んだ万巻の書物。日一日とぼくの人生から削りとられていく時間。興味もないのに、無理矢理ぼくの話につき合わされる生徒たちの退屈顔。仕方ないことだと分かっていながら苛立つぼくのこころ……。

 「教師をしているとね、体の血が一滴一滴と吸いとられるような気がするの。」というセリフが、確かチェーホフにあった。いずこも同じ、ということか。


(*1)「ひ」は「リッシンベンに非」の字。

(*2)*小泉淳作『アトリエの窓から』講談社・1998


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