17 耳順

2009.11


 60歳といえば、「耳順」だった。

 評論家の秋山駿がこんなことを書いている。

 孔子が自分の生涯を要約しての言葉に、四十不惑、五十にして知天命、六十にして耳順う、というのがある。私の子供の頃はまだこんな言葉が日常的に生きていた。しかし、どうも人生のエリートの言い草のようで気に入らない。へえ、信長やランボオは十七、八にして知天命じゃないか、下らないね、と嘲笑してみるのだが、耳順のところは、実は不可解だった。

 自分は、四十のときすべてに迷うようになり、五十にして自分がいったい何を本当に生きようとしたかが分からなくなったと続ける。ぼくもおおかたはそんなものだ。いいや、それどころではない。ぼくの場合は、「迷う」以前に、いまだ自分の足で立っていないのではないかという疑惑にいつもおそれおののいている始末なのだ。

 秋山は「耳順とはたいへん面白い言葉だ。」と言い、小林秀雄が、「これは孔子が音楽家(大詩人)であった事と大いに関係がある言葉だろう。」と言っていることを紹介した後で、こう続ける。

 私はもっと違ったふうに考えてもよろしかろう、と思っている。つまり、知天命というのは、もう自分が言いたいだけのことはすべて言い完わってしまった、この世の中のぎりぎりの真実と思えるものはすべて言い尽くしてしまったということではないか。(中略)人は一人ずつその生の真実を抱いて生きている。その真実に耳を傾けてみよう──言うよりも、聴こう、ということではなかったか。もう一歩進めよう。それはつまり、言うことよりも、聴くことという道の方がより深遠に至る、という認識のことであった、と。

 秋山はこの後さらに、「言う=強者の側」「聴く=弱者の側」と分類して、人間が言葉を獲得したのは、自分を弱者だと感じ、先行者の後をつけ、その身振りをまねる、つまり「聴く」という行為が必然だったからだと論を進めている。

 やさしく言えば、「自分の言うことなんてたかが知れている。それより、人の言うことに耳を傾けよう。」ということだ。耳順とは、言葉に耳傾けるだけではない。人の生き方、あるいは、自然の姿、要するに「自分」ではないものすべてに、耳を澄ます態度だということだろう。

 自分はエライんだ、スゴイんだと思っている人は、決して耳傾けることはしないものだ。そしてそういう人は圧倒的にオヤジに多い。秋山によれば「耳は女の感覚である。」のだそうだ。



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