15 全部という病

2009.10


 これからも次々と現れるだろう興味を引かれる本には目をつむるとしても、僕の僅かな蔵書でさえ、気を引き締めないと三分の一も読まずに死んでしまうのではないかと、毎日焦って暮らしている。

 知人が最近書いた文章である。彼は今年で70歳になったというのだが、この「焦り」は、ちょっと身につまされる。

 ぼくの蔵書はきちんと数えたことはないが、だいたい5000冊ぐらいで、これをもし仮に1日に1冊読んだとしても、14年近くかかることになる。世界文学全集の1冊を1日で読むなんてことは到底不可能だから、結局、ぼくがこれからいくら気を引き締めたところで、三分の一どころか、三〇〇分の一すら読めるかどうかおぼつかない。だからもし、これらの蔵書を「できることなら全部読みたい」と本気で思ったら、それは「焦る」どころの騒ぎではなくなるわけである。

 知人の「焦り」は、身につまされるけれど、ぼくは「毎日焦って暮らしている」ということはない。ぼくは自分の蔵書を「全部読みたい」とも、「全部読まなければならない」とも思っていないからだ。

 蔵書を「全部読みたい」と思うということは、世界にある本のすべてを読みたいという思いにつながっている。そういう思いは、ああ人生はなんて短いのだろうという思いを呼び起こし、心に激しい「焦り」を生じさせる。

 本だけではない、旅ならば世界のあらゆる所を旅したい、昆虫採集ならば全世界の蝶を全部集めたいというように、人間の欲望には限度がない。「全部という病」、それが欲望というものである。

 「僕の僅かな蔵書でさえ、気を引き締めないと三分の一も読まずに死んでしまうのではないか。」という思いは、どこか間違っている。間違っていると言っては失礼だが、そう考えてはダメなのだ。

 読書というものは(人生上のあらゆることは、と言ってもいいが)、出会いである。膨大な蔵書は、1冊との出会いのためにある。1冊の本は、1行との出会いのためにある。つまり、数千冊の蔵書があっても、それは全部を読むためではなく、その中のたった1行との出会いがあれば、それでいいのだ。焦ることなどない。

 「全部という病」から解放されて、「一部という豊かさ」へと進んでいけばいい。具体的には、蔵書の中から1冊を気の向いたときに抜き出し、数ページあるいは数行を読んで、それで楽しければいい、ということだ。それ以上何を望むというのか。



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