8 人生の断片

2009.9


 前回のエッセイの中で、断片の例として「写真」を挙げたが、なぜ? と思われた方もいると思う。写真の切れ端ではなく、写真そのものが「断片」なのである。どうしてか?

 どうしてか? と考えればすぐに分かることだが、(つまり問題提起は、すでに答えである、ということだ。)写真というものは、それが人物写真であれ、風景写真であれ、常に「現実の断片」であるということだ。写真のファインダーは、いつも現実を切り取るものとして機能する。問題は、どう切り取るかだ。そこに写真家の腕もかかっているということになる。よく、写真は現実そのものだから、芸術的には絵よりも劣ると思われがちだが、そんなことはない。どう切り取るかに、撮る人の感性のようなものが深く関わっているからだ。

 切り取ると言っても、指で四角形を作って風景を切り取るのとはまるで違う。そこにはレンズが介在する。使用するレンズによって、同じ大きさの風景を切り取っても、違いがでる。広角レンズを使えば、遠近感が誇張されるし、望遠レンズを使えば逆に遠近感がなくなる。同じレンズを使っても、絞りの開け方ひとつで、ピントの合い方がまったく異なった写真になる。

 まあ、そういうモロモロがあるから、写真愛好家は普通の人では考えられないような高価なレンズを何本も買っては、ああだこうだとご託を並べているわけである。「写ればいいじゃん。」って思っている人には到底わからない境地である。

 先日さだまさしが、「食わず嫌い王決定戦」に出て、「ぼくはカメラが好きなんだ。何かを撮るためにカメラを買うわけじゃない。」と力説していたが、常人からはまさに本末転倒ともいえるこの境地こそが、マニアの神髄なのである。カメラのカシャッというシャッターの音を聞いたり、レンズの深い透明な輝きを見ているだけでシアワセになれるのである。

 神は細部に宿るというが、シアワセは断片にあると言い換えてもよさそうだ。

 人生という大きなくくりで考えると、とうてい「シアワセな人生」なんていうものはありそうもない。けれども、人生の断片としての一日、あるいは数時間、あるいは数分には、確かにシアワセはある。そして、シアワセというのは、結局のところ、そこにしかないのである。そのシアワセの断片をパッチワークのように丁寧につなぎ合わせていけば、人生全体もひょっとしたらシアワセなものとして認識できるのかもしれない。



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