4 方便としての志

2009.8


 生きていくためには、いちおう志はたてたほうがいい。けれども、あまりキツすぎない方がいい、と、禅僧の作家、玄侑宗久が書いている。たとえば、宮澤賢治についてこう書いている。

 宮澤賢治の場合は自死ではないけれど、しかしなんとなく、やはり「志」がキツすぎた気がしてならない。「農民芸術綱要」にある「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」いう表現がそれである。私に言わせれば、もしそれが本当だとすれば、その「世界」とは此の世ではなく兜卒天(とそつてん)くらいしかあり得ないと思えてくる。あくまで此の世に生きる我々にとっては、個人の幸福の集合体が世界の幸福であるしかないはずである。《禅的生活》

 宮澤賢治を限りなく尊敬するぼくにとって、この賢治の「世界ぜんたいが…」の言葉は常に引っかかっていた言葉である。これが賢治の基本的な姿勢であることに間違いはないが、受け入れがたいものを感じていたのだ。しかし、否定もできなかった。それを玄侑はハッキリと異議を表明している。こんな仏教者に、ぼくは初めて出会った。驚いた。

 ひょっとしたら、禅宗の立場からの日蓮宗への批判なのかもしれないが(賢治は熱烈な日蓮宗の信者だった。)、それはそれとしても、長年の胸のつかえがおりた気がする。

 だからといって賢治はダメなんだということではない。もうちょっと肩の力を抜けばよかったのにと思うのだ。けれども肩の力を抜いたらそれはもう「宮沢賢治」ではあり得ないことも事実で、これが宿命というものなのだろう。

 玄侑は金子みすずにも言及している。

 「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」までは佳かったけれど「私は好きになりたいな、なんでもかんでもみいんな」とまで言われたら「それは無理です」と申し上げたい。(中略)そうした無理な表現に自分の全体を合わせ、方便であることを忘れていくから、彼女も自死するしかなくなってしまったのではないだろうか。《前掲書》

 「志」は玄侑によれば「方便」である。つまり生きる方法にすぎない。何か一つの「方便」がないと現実世界は生きにくいから「志」は立てる必要がある。けれどもそれを言葉で表現すると、どうしても過激になってしまう。その危険を言っているのだ。

 イエスの教えを「志」に選ぶとしても、あまりキツイのを選ぶと、人生を縛ることとなる。人を自由にするイエスの言葉にこそ注目したいものだ。



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