93 何のため

2009.5


 視野検査の話の続きだが、そもそも検査というものは、悪い所がないかどうかを発見するためのもので、そういう検査を医者からやれと命じられたということは、悪い所があるかもしれないと危惧されるからだ。緑内障というのは、視野が欠損し、最悪の場合失明するという病気で、この病気になった場合は、なるべくその視野の欠損の進行を遅らせることが治療の目的となる。手術で比較的簡単に治る白内障とは違って、やっかいな病気だ。

 ぼくなどはもう20年以上も前にこの病気を疑われ、実際問題として患者となっているわけだ。ただ今までの3回の視野検査では特別な異常はなく、今後も目薬をさし続けることになっている。ちなみにこの目薬は3割負担で、1本1000円近く払っているから相当高価な薬だ。

 さてそういう次第で、視野検査というのは、もし視野で欠損があれば、そこはどんなに強く光ったって見えないわけである。見えないから欠損なのだ。したがって自分がどんなに頑張ってみたところで、見えないものは見えない。努力しても無駄なのだ。ここが視力検査とちょっと違う所だ。

 もちろん視力検査だって努力は無駄だ。正確な視力が分からなければメガネの作りようもない。けれども人間というのはおかしなもので、見えにくくても何とか「あてよう」としてしまう。右かなあ、左かなあ、えい、右だ。わっ、あたった! なんてことをやっているのである。

 これがもっと激しくなるのが、視野検査だ。検査技師は、わざと見えない回を入れる。そうしないと検査にならないからだ。全部の回が、どこかで光るのなら、件の土屋氏のように全部押してしまえばいいわけで、それでは意味がない。しかしできれば視野の欠損など見つかってほしくない。正常でありたい。そういう気持ちが、何とかして「見つけよう」という気持ちを起こさせるのだ。

 強い光の時は、嬉しい。あ、光った、と思って力強くボタンを押す。弱い光の時は、ボタンを押す手もためらいがち。ピッと鳴る。それなのに何も見えない。ああこれは、ダミーだ。次にピッと鳴る。また見えない。次もまた見えない。見えない回が3回も続くと、検査技師への疑念が生じる。心が乱れる。そのうちに、見えてもいないのに見栄をはってボタンを押してしまったりするといった本末転倒の事態に陥るというわけだ。

 何事も、「何のため」なのかという原点を忘れずにいるということは誠に至難の技である。


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