91 炎のように

2009.5


 阿修羅像は炎のように立っていた。周囲を何重にも取り巻く人びとの視線を浴びて、毅然としながらも、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべながら、そこに立ちつくしていた。

 こんな形で人びとに取り囲まれるということは、数百年に及ぶ時間の中でおそらく初めてのことだったろう。「居心地の悪そうな」というのは、ぼくがそう感じただけのことかもしれない。興福寺国宝館の薄暗い展示室で、ぼくは何度も阿修羅像と対面している。けれども、今回のような感動と戸惑いを同時に感じたことはなかった。

 今回の展示は、それこそ史上初の出来事で、国立博物館の展示技術の粋を尽くした見事な展示だった。何よりも照明。立体的な彫刻としての仏像は、照明ひとつでまったく異なった姿を見せる。係員に促されながら、少しずつ左に移動していくたびに、阿修羅像は異なった表情を見せる。腕の間から正面のお顔が逆光のなかに照らし出される。息を飲むというのはああいうことをいうのだろう。周囲の100人を越える人びとは、それこそ声もなく、食い入るように見入っている。

 「炎のように」と最初に書いた。それは、6本の手の揺らめきでもあったが、何よりも像全体の赤さだった。国宝館では感じることのできなかったその色彩に魅了された。その赤い像が、周りを取り囲む人びとの中に燃えるようにして立っている。

 阿修羅像を見る前に、十大弟子の像を見た。これがまた想像を遙かに超える素晴らしさだった。この像たちも、国宝館で何度も見ているのに、素晴らしい照明による展示によって、その魅力を存分に味わうことができた。その像が褐色を基調としていたからだろう、阿修羅像の展示室に入って遠目に像を見たとき、その赤さに驚いたのだ。

 これらの仏像は世界の彫刻芸術の頂点にあるというのがぼくの確信である。ミロのビーナスも、ロダンの彫刻も、これらの仏像に比べればたわいもないものだ。

 しかしそれでも、「居心地の悪さ」「戸惑い」は依然として拭いきれない。どんなに優れた彫刻作品でも、それが仏像である限り、あのような形で見られるべきものではない、ということだろうか。仏像はやはり純粋な美術品ではありえない。それゆえにこそ、仏像はミロのビーナスほどの普遍性を持ち得ない。だからこそ、思い切った美術品としての仏像展示をしたのだろう。戸惑いはその狭間で生じたのかもしれない。

 いずれにしても、必見の展覧会であることは間違いない。


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