88 おすもうさん今昔

2009.4


 おすもうさんの美しさは、力にみちた肉体の素裸でぶっつかり合うところにあることは間違いないとしても、ただのぶっつかり合いではなくて、おすもうさんの動きは私たちの日常生活のそれを基本としたもの、つまり私たちの社会に固有の礼儀作法から生まれたものに違いない。たがいに眼を見合って、お辞儀をしたり、シキリなおしのたびに塩をまいたり、そういうことが一つ一つ私たちの古くからの日常茶飯事の感覚に根ざしている。

 安岡章太郎が、1967年(昭和42年)に書いた文章である。今から約40年前。ぼくが高校3年生だった年だ。ぼくにとっては、つい昨日のような気がするが、40年というのは長い。今、相撲について書いたとしても、とてもこのようなことを、ごく当たり前のように書くことはできない。その後安岡は、風間画伯から聞いた話として、柏戸はおっちょこちょいだから、勝つと嬉しくて笑い出したくなるのだが、師匠から「土俵の上で笑っちゃいけねえ。」と固く戒められているもんだから我慢するので、勝つと変な「ヒンまがった」顔になってしまうのだと書いている。そしてこう続ける。

 そういえば、たしかに、横綱が勝ったとたんに破顔一笑、土俵のうえで跳り上ってよろこんだりしては、かたなしになるだろう。これはたとえば拳闘のチャンピオンの勝ったときの喜びようとくらべてみればあきらかなことだ。

 と、これもまたごく当たり前のように書いているわけだが、現在ではさすがに横綱は「土俵のうえで跳り上ってよろこんだり」こそしないけれども、「破顔一笑」はごく普通に見られるし、ガッツポーズも珍しくない。勝って賞金を受け取る時も、安岡は「みんなひどく真剣な、お宮のまえで神主からオハライをうけるときとそっくりの面もちである。」と書いているのがウソのような有様である。変われば変わるものである。

 勝てば嬉しいのだから、その気持ちを素直に表すのは当然ではないか。それを我慢する必要などこれっぽっちもないはずだ。それが今の人間の思いだろうし、それをほとんどの人は疑わない。けれども今からたった40年前、それはちっとも当然ではなかったのだ。勝っても喜ばない。点を入れたのが自分だとしてもそれを誇示しない。それがツツシミだ。そういうことが国民的なコンセンサス(合意)となっていたのだ。

 それは「古きよき時代」だったのか。それともただ「ばかばかしい時代」に過ぎなかったのだろうか。


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