87 すっと離れる

2009.4


 新学期が始まった。勤務校では毎年クラス替えが行われ、しかも多くの場合担任も替わるので、学期初めの生徒の興味関心は、今度はどういうクラスになるのか、担任は誰か、教科担当者は誰かというようなことにまずは集中する。

 去年まで担任をもってきたが、今年ははずれた。こういう場合の生徒の反応というのが面白い。今年は担任ではないと分かると、廊下で生徒たちに会っても、彼らの態度に微妙な変化がある。それを言葉でどう表現すればいいのか分からないほど微妙なのだが、あえて言ってみれば「すっと離れる。」という感じである。決して「もう関係ないや。」といった露骨に冷たい態度ではない。しかし、担任だった時とは明らかに違う。それは「すっと離れる。」としか言いようがない。

 担任の場合だけではない。今まで教えていた生徒たちを今年はもう教えないという場合でも、彼らは「すっと離れる」。

 いや、ほんとうは「すっと離れる。」のはぼくの方なのかもしれない。ぼくの気持ちが彼らから「すっと離れる。」から、そう感じるだけなのかもしれない。

 いずれにしても、この感じは結構好きである。ちょっとした寂しさを感じつつも、悪くないなあと思う。

 今年の卒業式でもそういう感じを味わった。卒業生は中1の時に担任しており、更に高1の時にも古文を教えたので、かなりよく知っている学年だった。しかし卒業祝賀会の会場で、ぼくと目があってもふっと目をそらす生徒が多かった。「先生、お世話になりました。」ぐらいの言葉をちょっと期待していたので、冷たいなあと思ったものだが、今思えば、いっそ爽やかだった。

 昔教えてもらったことを何年経っても感謝してくれる生徒もいる。30年経っても、年賀状を必ずくれる生徒もいる。しかしそれは例外で、9割以上の生徒は、ぼくのことなんか忘れている。もちろんぼくも彼らの一人一人を覚えているわけではない。

 どちらでもいいのだ。お互いに忘れないというのも一つの「縁」だ。そういう関係は言葉の本当の意味で「ありがたい」。けれども、そうでないのはケシカランとは思わない。それも一つの「縁」のあり方だ。どちらが良いとか悪いとかいうことではないだろう。

 人間関係というのは、その時その時がすべてだ。用が済めば、離れる。それが基本であり、その後の関係は「ありがたい」ものとして受け取っておけばよい。忘れられたと言って恨んだり憎んだりするのは見苦しいことだ。


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