86 実況中継

2009.4


 色々と考えるのは、過去の体験を思い出してあれこれと思い悩んだりするか、未来に対する心配や期待をしているかのどちらかであって、今の瞬間にはそもそも思考の題材がないのです。(熊野宏昭『ストレスに負けない生活』ちくま新書)

 そういうわけだから、色々と思い悩むことから生じるストレスから解放されるには、「今を生きる」ことが大事なのだと熊野氏は言う。では「今・この瞬間」に集中して、余計なことを考えないためにはどうすればよいのか。「余計なことは考えないようにしよう。」なんて思ったってだめ。そんなことをするとますます余計な雑念が押し寄せてきてしまう。有効な具体策として熊野氏は「呼吸を数える」という方法を挙げている。

 息を吸って、吐く。これを一つとして、一つ、二つと数える。すると、大抵は途中で雑念が入っていくつだか分からなくなってしまう。そしたら、また一つから始めるのだそうだ。そうすると、だんだん「今」に集中できるようになるという。座禅などにも通じることだそうだ。

 もう一つの有効な手段として、「実況中継」を挙げている。今、自分がしていることを、いちいち言語化していくという方法だ。お風呂に入って頭を洗うとき、あれ、今もう洗ったんじゃないかなあと分からなくなって、もう一度洗ってしまうということが、最近よくあるのだが、これも頭を洗いながら余計なことを考えているせいだ。

 こういうとき、「今、シャンプーを手にとったところです。さあシャンプーが髪の毛にからまりました。洗っています、洗っています。泡がたっております。あ、毛が抜けました。また一本……」なんてやるわけだ(声に出さなくてもいいそうだ)。洗っている「今」に集中して、他のことなど考えようもない。これで洗ったことを忘れたら完全なボケである。

 こういうことを年中やっていると、本当に「今を生きる」ことができるようになるという。

 先日のWBC決勝戦のイチローのタイムリーヒットは今でも目に焼き付いているが、あの後、イチローはインタビューに答えて、「注目されているだろうと思ってねえ、やあ、実況中継していましたよ。」と言っていた。彼の「実況中継」は、必ずしも自分の行為だけを対象としたものではなかったかもしれないが、しかし、その「実況中継」が彼の集中力を格段に高めたことは確かだろう。イチローの「実況中継」も、案外こうした理論にのっとっていたのかもしれない。


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