84 贈る言葉と贈られた言葉

2009.3


 スティーヴンスン著『若い人々のために』という本がある。大学生の頃の愛読書だった。中でも、人間なんて実にちっぽけなものであって、いてもいなくてもいいのだ、例えばあのシェークスピアだって、いなければいないでそれで世の中はちっとも困りはしないのだ、といったような言葉は、今でも鮮明に心に残っている。シェークスピアがいてもいなくてもよかったのなら、もちろんぼくなんかは、世の中に必要とされていないことは明白ではないかと思うと、悲しいような、それでいて、妙に気が軽くなるような気分になった。
 若者に向かって多くの人は、世界は諸君の活躍を期待している、どうか世のため人のために頑張ってほしいというようなことを言いたがるが、ぼくはやはりこのスティーヴンスンのように、世の中は君たちに大して期待していないよ。だから余計な気を使わないで、好きなように、できれば平凡に、穏やかに日々を暮らすことだな、と言いたい。

 こんな文章を、先日卒業していった生徒のために書いた。学校の図書委員会が発行している『矢』という広報誌は、毎年卒業生のために特集を組み、卒業生を送る言葉をその学年に関わりの深かった教師に依頼して掲載しているのだ。こんど卒業した学年は、中学1年生のときに担任をしたので、ぼくにとっては印象の深い学年だった。

 しかし、こんな辛気くさい文章を、卒業のはなむけの言葉にするのはどうかなあと思って、書いた後もすぐには図書委員に渡すことがためらわれた。しかし他に書くことも思いつかず、半分投げやりな気分で原稿を渡し、結局この文章が掲載された。文中のスティーヴンスンとは、あの有名な『宝島』を書いた作家である。

 卒業式の祝賀会の席で、あるお母さんから「あの文章を読ませていただき、先生らしいと思いました。先生に担任をしていただき本当によかったと思いました。」という言葉を、そして更に続けて隣のお父さんからも「こういう時代だからこそ、大事なことだと思いました。」との言葉をいただいた。その翌日、職員室のぼくの机の上に、同僚からの一枚のメモが置かれていた。そこには「しみじみとした文章、ありがとうございました。」という言葉があった。

 文章を書く者にとって、こうした反応は嬉しいものだ。とりわけ自分でもどうかなあと自信のない文章を書いたときに、こうした反応があると、ちょっと大げさだが「地獄で仏」といった気持ちにさえなるものである。


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