83 天地有命

2009.3


 「私は亡くなった子供の命を生きているのだ。」という言葉を聞いた時、そうした言葉を耳にしたのはそれが初めてではなかったのに、ハッと胸を突かれる思いだった。そしてその時、果たして「命」とは何だろうかとの思いに深くとらえられた。

 「私」は「私の命」を生きていると普通には信じられている。しかしそれは本当だろうか。

 作家の南木佳士は、うつ病の「奈落の底に落ちていた」ころ、大森荘蔵の次のような言葉に救われたという。

 自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分について考えてみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点景としての私も又陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましくなる。簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。

 「私の感情」だと思っていたものは、実は「世界の感情」の一部なのだとすれば、「私の命」だと思っていたのは、実は「世界の命=大きな命」の一部に過ぎないのかもしれないと考えることだってできるのではないか。

 「命」は、個々の人間の内部に閉じこめられているのではなく、「大きな命」を個々の人間が分けもってそれを生きているということなのかもしれない。そうは言っても、その「大きな命」が何であるのかはよく分からない。キリスト教ではそれを「神」と言い、仏教ではそれを「無」と言うのかもしれないが、そう言っていいものかどうか、やはり分からない。

 しかし少なくとも「私の命」が「私」の所有物でないことだけは確かだ。「私の命」は「私」が努力して獲得したものではないし、また「私」の思い通りにそれを維持したり放棄したりできるものでもないからだ。

 天地有情ならば、天地有命でもあるだろう。親しい人の死は悲しい。けれども、悲しいのは死そのものではなく、別れなのだ。天地有命ならば再会もまたあるだろう。つかの間の別れを悲しみながら再会への希望を持って、今は大きな命の一部をいつくしみながら生きること、それが「生きる」ということなのかもしれない。


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