82 区別

2009.3


 今に始まったことではないが、電車の中での若い人たちの立ち居振る舞いには、目を覆いたくなるものがある。

 先日も、学校の帰り、横浜地下鉄に乗ったところ、ひとりの男子高校生の姿が目に入った。連結部のすぐわきの三人掛けの座席を二人分使って、斜めに座り、というより半分横たわり、学生鞄が彼の前の通路のほとんどど真ん中に放り投げてある。この姿は、電車の中というより、彼の自室での姿そのものである。私的な場が、そのまま公共の場に持ち込まれている。いや、彼には「持ち込んだ。」という意識すらないのだろう。私的な場と、公共の場の区別がついていない。あるいは、区別をつけることができない。更に言えば、そもそも区別があるのだということを知らない。

 ということは、この地下鉄の車内に斜めに横たわる物体は、もはや人間ではなく、動物に過ぎないということだ。まあそれが言い過ぎなら、大人ではなく子供だと言い換えてもいいが、しかし、子供でも少し聞き分けのよい子なら、電車の中では「大人しく」していることはできるものだ。

 そういえば「おとなしい」という言葉は、「大人しい」ということだということは、注目すべきことだ。広辞苑では、「大人しい」の意味として、「大人びている。」「年長者らしい。重だったさまである。」「おちついて穏やかである。従順である。」「けばけばしくなく、すなおで落ち着いている。」の4つの意味が挙げられている。普通には「穏やかで、従順だ。」というような意味で使われているが、もともとは「大人びている。」ということなのだ。「大人」であるということは、基本的には「公私の区別がつく。」ということだ。公共の場で、自分勝手な振る舞いをすると他の人間に嫌な思いをさせるということが分かっていれば、必然的に「穏やか」な行動をとることになる道理である。

 先述の高校生は、別に奇声を発して騒いでいるわけではないし、他人に暴力をふるって暴れているわけでもないから、「おとなしい」子なのだが、言葉の本当の意味では全然「大人しくない」し、ぼくの神経を苛立たせるという意味では、暴力的だとすら言える。

 公共の場と私的な場の混同はこの高校生に限ったことではない。昔の会津の藩校では、家の外で物を食べることすら禁じた。食事はあくまで家の中でという教えは今の世の中にはそのままでは通用しないが、物事の「区別」を考えるきっかけにはなるだろう。


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