80 定宿

2009.2


 最近は学校から帰ると、まずは録画してある『だんだん』を見る。徒歩と電車での通勤は、腰痛持ちのぼくにとってはちょっと厳しいところもあって、朝のうちはそんなに辛くはないが、家に帰ってくるころには結構腰が痛くなっている。それで、炬燵にはいって横になると心底ほっとする。思わず「あーあ、極楽、極楽。」などと爺くさいセリフをはきそうになる。そのうえ『だんだん』である。

 見始めのころは、あんまり面白くないし、茉奈・佳奈の双子は、あんまり可愛くないなあなどと思っていたのだが、その後結局一回も欠かさずにずっと見続けてくると、妙に二人に愛着を感じてきて、のぞみは祇園を捨てたなんてことにこだわらずに、さっさと戻ればいいじゃないかなどとイライラしたり、今更昔に戻れないだろうかなんてことを真喜子さんは忠さんに言ったらあかんなどと文句を言ったりしながら、結構楽しく見ているのである。一日のうちでも、もっともくつろいだ時間といってもいい。

 まして、翌日が休みだったりして、しかも抱えている仕事もないとなると、シアワセな気分にさえなる。授業が楽しくないとか、嫌だとかいうのではないが、それでも生徒を前に50分間何かをしゃべらなければならないというのは、教師を30年以上続けてきた今でも、それなりのプレッシャーがある。国語、それも現代文の授業というものは、決まったやり方があるわけではないから、それだけ自分のやりたいように出来るという面白さがあるとはいっても、その「やりよう」を毎日探すのは実は大変なことなのだ。

 まあいずれにしても、家でくつろげるということはシアワセなことで、それだけで他には何もいらないのではないかと思ったりもする。

 どこぞの温泉地に「定宿」があるなんてことをよく自慢していた知人がいたが、旅費を使ってわざわざ遠くまで出かけ、しかも高い宿泊料を払ってまでして何を求めているのかといえば、結局この「くつろぎ」だろう。「定宿」という言葉には、どこか人をして羨ましがらせる響きがあるが、なに、我が家こそ究極の定宿だと思い定めれば、温泉の定宿など何ほどのものでもないことが納得されるだろう。

 窓から見える風景には、旅館のような風情はないにしても、作り物ではない日常の真実がある。家の者たちには、旅館の女将や仲居さんのような愛想はないにしても、とことん馴染んだ気安さがある。これ以上のものはないではないか。


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