78 注目されず、期待もされず

2009.2


 確かロマン・ロランの母だったと思うが、息子に「有名にだけはならないでほしい。」とよく言ったという話を聞いたことがある。その真意は知るべくもないが、平凡な人間として幸せに心安らかに暮らすことが人間にとって一番いいのだと思っていたのではなかろうか。平凡な人間だからといって、心安らかに暮らせるという保証があるわけではないが、有名になればそれ相応の気苦労がつきまとうことも事実のようだ。キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい。」と言って引退した時も、ぼくは芸能界の裏事情とは無関係に、そのような文脈で理解したように思う。

 宮沢賢治が「ミンナニデクノボウトヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハ/ナリタイ」と願ったのも、また同じ思いからかもしれない。

 とにかく、だれからも注目もされず期待もされないごく普通の平凡な人間というのが、もっとも幸せなのかもしれない。かもしれないなどとまるで他人事みたいな言い方をするのは、ぼくが有名人だという意味ではなくて、教師という職業は、それなりに数多くの生徒に注目され期待もされる仕事なので、「芸能人的」な要素が少なからずあるからなのだ。

 ところで、先日の『サーカスの馬』に関しての生徒の感想だが、この主人公が何のとりえもないことこそとりえなのだと書いた子が何人かいた。その中の一人は、とりえのない子は、みんなの注目をあびることもなく、期待もされないから、「自分を尊重できて、他人を傷つけることもなく、自分のやりたいと思うことを、ぞんぶんにゆっくりやることができる。」と書いていた。

 「自分を尊重して」「他人を傷つけることなく」「自分のやりたいことを」「ぞんぶんに」「ゆっくり」やることができる、というふうに分解してみると、何か、この世に生きる理想のような感じがするではないか。それができるためには、他人からの注目や期待が邪魔となる。確かにそうだ。

 太宰治は『葉』という作品に「撰(えら)ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」というヴェルレエヌの詩句を掲げたが、太宰のその後の作家としての栄光と悲惨は、この一句に集約されるだろう。「デクノボウ」でありたいと歌った賢治も、「デクノボウ」ではありえない自身の天才のゆえに「じぶんのやりたいと思うことを、ぞんぶんにゆっくりやる」ことができなかったのではなかろうか。

 中2の諸君には教えられることが多い。


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