76 熱狂の危うさ

2009.1


 オバマ氏がアメリカ合衆国の大統領となって、その就任式が先日あったわけだが、テレビから流れてくるアメリカ人たちの熱狂ぶりには、やはりどうも何ともいえない違和感を感じてしまった。その就任演説も、一部を聞く限りではたいしたものだと思わないでもないが、いずれにしてもあまりに期待が大きい場合には失望も大きいということは理の当然であり、まして言葉というものはいかようにも操れるものだから、いずれこの熱狂が冷めた時、「何だ口先ばかりじゃないか。」という批判も出てこないとは限らない。

 「演説に熱狂している群衆」というものが必然的に喚起させるのは、ヒトラーの演説に陶酔するかつてのドイツ人の姿であることは不幸なことかもしれないが、しかし、「演説」というものの危うさを常に人々に示唆し続けているともいえる。それなのに「民主主義」を標榜するアメリカ人は、どうしてこう無自覚に演説に熱狂できるのだろうか。この熱狂は、あの「9・11」以降の戦争へと向かった時の国民的な熱狂といったいどう違うというのだろうか。その根本は同じなのではなかろうか。

 出口のない不況のなかで、アメリカ国民は、やけっぱちになって熱狂するしかないという見方もできるのかもしれないが、それにしても、あの満面の笑顔から「やけっぱち」な気分は伺いしれない。とすれば、要するに彼らはただの「お祭り好き」ということなのかもしれない。

 それにしても、オバマ氏の演説が素晴らしいということは衆目の一致するところらしく、演説本も売れているらしい。それに比べて日本人は演説が下手だと言われる。自分の意見を主張することも苦手だと言われる。だから教育界でも、さかんにディベートが推奨される。積極的に国語や英語の授業のなかに取り入れようとしている。

 自分の意見を主張し、またその意見に反対な者に対して、あらゆる手練手管を使って説得する技術。その集大成として「演説」があるのだろう。人を引きつけ、感動させ、心を高揚させ、そして一つの方向へ引っ張ってゆく力。それこそがこれからの社会に求められているというわけだ。

 しかし、それはほんとうだろうか。そういう力によって、社会がよい方向に向かったことも確かにある。しかし、戦争と呼ばれるものにそういう力が関わらなかったことはおそらくただの一度もない。熱狂はいつも危うい。そのことは肝に銘じておきたい。


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