75 「私淑」と「親炙」

2009.1


 『結城信一 評論・随筆集成』という本を読んでいたら、「私淑」と題したエッセイに、次のような記述があった。

 百目鬼恭三郎氏は「コトバの整理学」を書きはじめ、先日の「混乱3」(朝日新聞、昭和五十二年六月二十二日夕刊)のなかでは、次のように述べてゐる。《……「私淑」は「ひそかにある人を師と仰いで、書物などを通じて間接的に学ぶこと」の意味である。ところが、それを「親しく教えを受ける」の意味に使う人が多くなってきている》
 つまり今は、個人的に親しく、という風に誤解しているのだ、と指摘している。……堀辰雄にたいしての私は、本来の意味での「私淑」にとどまってゐた。

 ぼくも、はっきりと意識していたわけではないが、「個人的に親しく」の意味にとっていたように思えるので、へえーと思った。それなら近ごろのブログなんかには誤用があるのではないかと思って意地悪く検索してみたら、案外そうでもなくて、むしろ本来の意味をきちんと紹介している文章が多かったので逆に感心してしまった。

 もう少し詳しく紹介しておくと、「私」は「ひそかに」の意、「淑」は「よしとする」の意で、「私淑」は『孟子』に出てくる言葉のようだ。いずれにしても、なかなかいい言葉だ。

 結城信一という作家は、地味で寡作だったので今では簡単には本が手に入らないが、荒川洋治が高くかっていて、『結城信一 評論・随筆集成』も荒川洋治が解説を書いている。荒川洋治が好きで、その本を読んでいたら、結城信一に興味を持ち、その本を読んでいたら、結城信一が堀辰雄に「私淑」していたということを知ったというわけだ。堀辰雄は、ぼくの文学への興味の出発点にあった人だ。深い因縁を感じる。

 ぼくは特に誰に私淑しているということはないが、生きている作家としてはさしずめ荒川洋治に私淑しているといってもいい。同い年なのだが、年齢は関係ない。

 ところで、「直接親しく教えを受けること」は「親炙(しんしゃ)」という。この「炙」は、「肉を火の上で焼く」という意味だそうだ。学問の世界で、そばにいて直接教えを受けるというのは、先生の火で焼かれるようなものだということだろうか。そうなると学生の方もなかなか大変である。遠赤外線ぐらいの感じでほんわか焼かれるならまだしも、備長炭で焼かれる焼き鳥みたいになるのはひどく苦しそうだ。タラタラ流れ落ちるのは脂汗だろうか。

 やっぱりぼくは「私淑」にとどめておきたい。


結城信一(ゆうき・しんいち)=1916〜1984。小説家。
百目鬼恭三郎(どうめき・きょうざぶろう)=1926〜1991。文芸評論家、新聞記者。


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