74 そうか、そうだったのか……

2009.1


 「ねたみ」と「ひがみ」は似ているが違うと友人が言った。説明を聞くと、「ねたみ」は、相手と自分とを比較して生まれる感情、「ひがみ」は、相手とは関係なく自分ひとりで考える感情だと言った。なるほど、なかなかいい説明だなと思った。

 と画家の安野光雅が書いている(『語前語後』朝日新聞出版刊)のを読んで、なるほどなかなかいい説明だなとぼくも思った。安野は更に続ける。

 他の人が自分を笑っている、と考えるのは「ひがみ」で、これを推し進めると「ひがみ」はほとんど自作自演の感情で、創作的でさえある。

 なるほど、なるほど、そうかもしれないなあと思った。更に安野は言う。

 禿げていようと、お腹が出ていようと、あるいは身体に障害があろうと、心ある第三者は決してさげすんだりしない。そうだと決めてかかるのは、自分が下手な小説を書いているようなものである。

 そうか、そうなのかと心を動かされた。さげすんだり笑うのは「子供」で、「大人」は笑わないのだという説明に更に納得。生徒は「禿げてる」と笑うけれど、ほとんどの大人は「禿げてる」と言って笑いはしない。ひょっとしたら心の中で笑っているかもしれないじゃないかと思うこと自体、「下手な小説を書いてるようなもの」なのかもしれない。安野は更に続ける。

 「誇りを持て」という言葉がある。誇りを誰でも持ちたいが、どうすれば持てるか分からない、という人がある。案ずることはない。「ひがみ」の感情をひとつひとつ削ぎ落としていき、やがて「ひがみ」を克服してそれを持たぬようになることが、つまり「誇りを持つ」ことなのだ。

 そうか、そうだったのか。ぼくが還暦を迎える歳になっても、まだ自分に対して何一つ誇りを持てないでいるのは、つまり心の中がつまらぬ「ひがみ」でいっぱいだからだったのか。

 例えば、「禿げてる」ことへの「ひがみ」は完全に克服したつもりでいた。けれども、この正月に息子が撮ったぼくの横顔の写真を見て、その「薄さ」に愕然として正月早々かなり暗い気分に陥った。日頃、生徒に向かって「禿は恥じることはないのだ。むしろ美しいのだ。」などと言っておきながら、その写真を見てつくづく淋しく思ったという事実は、まさしくぼくが「ひがみ」を克服していないことを証明している。

 さてさて、安野氏の言うように、「ひがみを持たぬようになること」は果たして可能だろうか。言うほど易くないことだけは確かである。


 

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