73 ゴールはいつも泣きの涙

2009.1


 スポーツはほとんどやらないが、観るほうは結構好きだ。といっても熱狂的になるほどのものはない。かつてはベイスターズを熱を入れて応援していたが、昨シーズンのテイタラクで熱もかなり冷めてしまった。大相撲は今でも好きだが、どうも先行き心配だ。

 今年の正月は駅伝をかなり熱心に観た。往路はほとんど全部観たが、復路は、入院している家内の父を見舞うために鶴見まで行ったので後半は抜けてしまったが、その鶴見の病院までの途中、国道1号線を車で走ったので、選手の到着を待ちわびる沿道の人々を見た。高齢者の姿も多く、よくこんな寒さの中を立っていられるものだなあと感心してしまった。

 それにしても、いつも思うのだが、駅伝の選手というのは、襷を渡した直後にほとんどが意識朦朧といった感じで倒れ込んでしまうが、あれはいったいどうしてなのだろう。もちろん疲れ果てているのは分かるのだが、さっきまであんなに力強く走っていたのに、その直後に立ってもいられなくなるというのは、体のどういうメカニズムによるのだろうか。それが不思議でならない。

 人間は気力で生きている、ということの証なのだろうか。

 またこれは不思議というのとはちょっと違うのだが、襷を待つ次の走者はみな緊張こそしているが、それぞれに自信ありげで、笑顔すら見えるのに、中継点に着く時は、決まって苦しそうな死にそうな表情で入ってくるのも、なぜなのかしらと思ってしまう。

 走って疲れるからに決まっているじゃないかと言われれば、それまでだが、走り出す前と後の表情のあまりの違いを見ていると、何かそういう理屈以上のものを感じてしまう。

 どんなことでも、初めはみんな、それぞれに幸せそうで、自信もあり、希望もあって、笑顔なのに、決まってどこかで苦しくなって、最後は何が何だか分からないくらいグチャグチャになってしまう。そして、ゴールに倒れ込む。

 幸いにして、笑顔でゴールという場合もないわけではないが、その笑顔にしても、走り出す前の無垢の笑顔ではない。もっといろいろな複雑なものを内包した笑顔である。しかしほとんどの場合は、笑顔のゴールとはならない。たいていは泣きの涙だ。どうもそれが人生というものらしい。

 けれども、終わりはまた初めでもある。だからぼくらは、いつでも何かを始める限り、無垢な笑顔で出発できる。

 お正月がどんな時も常にめでたいというのも、またそういう理由からであろう。


 

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