70 走れ、メロス!

2008.12


 太宰治の『走れメロス』を初めて読んだ中学生は、メロスのあまりの後先を考えない無謀さと精神の単純さにほとんど呆れ果てる。妹の結婚がそれほど大事なら、妹を先に結婚させて、しかる後に暴君たる王を殺しに行けばよいではないか。そうすれば、たとえ捕まったとしても、人質を差し出して死刑の執行を猶予してくれなどということを言わずに済むわけだし、友だちのセリヌンティウスも人質にならなくても済むじゃないか。そんなことも分からぬメロスは、単なるバカでしかないではないか。とまあ、そう思うわけだ。これは別に中学生だからというわけでもなく、大人が読んだとしても、納得のいかない話である。

 しかし、妹を結婚させたのち王城に乗り込んだのでは、そもそも「走れメロス」という話が成り立たない。ある意味矛盾だらけのばかばかしいメロスの行動は、メロスを走らせるための口実にすぎない。というより、この話の種本となったシラー作の『人質』という詩の筋がそうなっているのだから、どうしようもないのだ。

 問題は、メロスはなぜ間に合いそうもなくなった後も走ったのかということだ。その理由は「自分が信じられている。信頼されている。」ということだった。だからメロスは、たとえ間に合わなくて、友だちが殺されてしまったとしても、今「走る」ことには意味があるんだと思ったわけだね、というところに『走れメロス』の授業は落ち着いた。

 ところで、「信じられているから走る。」ということは、人間は「信じられているから生きられる。」ということにつながると思うな、と話を続けた。

 「人はひとりでは生きられない。」ってよく言われるけど、それをちょっと難しく言い換えれば、「人間は関係性の中で生きている。」ということだ。その関係性っていうのは、生きている人間だけじゃないよ。芸術だってそうだ。音楽を聴いて感動するのは、音楽とあるいはその作曲者や演奏者と関係したからだ。また自然だってそう。きれいな青空を見ていいなあと思うことで、ぼくらは生きていける。それは人間が自然との関係の中で生きているということだよ。あるいは神。神とまでいかなくても、死んだおじいちゃんが、どこかでぼくを見守ってくれているんじゃないかと思うとき、ぼくらは死んだ人との関係を生きていることになるんだ。

 メロスも友だちとの関係を生きていたから、たとえ間に合わなくても走ろうと思ったんだね。


 

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