64 犬の声は

2008.11


 先週の解答。北大路欣也です。

 これを知って聞くと、ちゃんと北大路欣也の声に聞こえるから妙だ。ウグイスが「法、法華経」、ツクツクボウシが「つくづく惜しい」と聞こえるのと同じことかもしれない。そう思うとそう聞こえるものだ。もっともこの犬の場合は、本当に北大路欣也の声なのだから「そう聞こえる」というのは正しくない言い方だろう。別のことに気を取られていると、つまり「この白い犬は何犬なんだろう。」とか(ちなみに北海道犬だそうです)、「何でお父さんが犬なんだろう。」とかいうことばかり考えて見ていると、声が誰の声かなどということはまったく意識にのぼらない。「問い」がなければ「答え」のでようがないというわけである。

 このCMを見て何だばかばかしいという意識が先にくると、まともに見ないことになる。お母さんが樋口可南子で、娘が上戸彩で、その兄が黒人で(フランス人らしい)というだけでもバカらしいのに、お父さんが犬であるというのはナンセンスの極みである。しかも樋口可南子のお母さんが校長先生だというのだから、よけいに理解できない。そういうわけで、こうしたばからしいCMはハナから見ないという人は、「問い」がなければ「答え」のでようがない、というような人生上の大真理に到達することはできないのである。

 まあそこまで大げさな話ではないが、ものごとをすぐに「ばからしい」と見て取って、視界から放り出してしまうというのは、必ずしも褒められたしぐさではない。つい先だっても保坂和志の「本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。」という言葉を紹介したばかりだが、この中の「小説」を「CM」に置きかえてみればよい。

 この犬のCMを「真に受けて」も仕方ないといえばそれまでだが、しかし「真に受けた」場合に限って「この犬の声は誰?」という疑問が頭をもたげるのだ。

 さて北大路欣也だと知って、なぜ北大路欣也なのか? という疑問が生じるかもしれない。ネット上では、高橋英樹で十分じゃないかとか、金をかけて自慢したいだけなんだとか、いろいろ言われている。まあ、暇で死にそうな場合は、そういうことを考えるのもいいかもしれない。


 

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