62 批判は簡単

2008.10


 批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。(保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』)

 久しぶりにいい文章に出合った。出たばかりの保坂和志の本の「まえがき」だ。

 今更言うまでもないことだが、保坂和志は栄光学園の卒業生だ。芥川賞を取った後、栄光の図書委員会の招きに応じてくれて来校したことがある。生徒との話し合いの後の夜の飲み会にぼくも参加して、一緒に酒を飲んだ。とにかく栄光ではヒドイ目にあった、だから栄光は大嫌いだが、1人だけぼくを応援してくださった先生がいた、ということでその先生もお呼びして一緒に飲んだのだ。今は亡き堀先生である。保坂さんと堀先生とぼくとが写ったスリーショットの写真は自慢の一枚である。

 まあ、それだけのことで、別にぼくは保坂さんとオトモダチだというわけではない。ひとりのファンにすぎない。

 余計なことはさておき、引用した文章には深く考えさせられる。ここでは保坂さんは小説を読むことに関して述べているわけだが、これはもちろん「考えること」一般にも十分にあてはまることだ。

 テレビのニュースやバラエティー番組などで、芸能人やら何やらがたくさん出てきて勝手なことを言っているが、どうしてそんなに次から次へと意見が言えるのかと不思議だった。しかし、これでよく分かった。つまり彼らの意見というのは、たいてい何かに対する批判であり、批判は簡単なのだ。

 言われてみればそうである。納豆を批判するのは、自分が納豆が大嫌いなら簡単にできるのだ。保坂さん流に言えば「こちら側がいくつかの食べ物に対する偏った好みを持っていれば簡単にできる。」ということだ。

 何かについての確固とした意見を持っていることは、別にエライことでも何でもないのだ。頑固オヤジはそれこそゴマンといる。本当にエライのは、自分をどんどん変えていけることだ。

 このエッセイを比較的楽に書き続けていられるのも批判ばかりしているからなのかもしれない。新しいものに出合うたびに、しなやかに自分を変えていけること。目指したい境地だ。


 

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