60 『瞳』ふたたび

2008.10


 『瞳』をハードディスクレコーダーに録画するために、「探して録画する」というモードで予約をした。近ごろの機械というのはまことにスグレモノで、一度このモードで予約したら、以後ずっと同じ番組を毎日欠かさず録画し続けてくれた。そのおかげで、2学期が始まってからも『瞳』を最後まで見ることができたのだった。

 最終回。この156回にも及ぶドラマをどう締めくくるのかというのはやはり大きな関心事だ。数年前の『純情きらり』では、主人公の女の子が死んでしまうという悲しすぎる結末だったと家内から聞いたが、半年も一生懸命見続けるのは、何も主人公の悲しい結末を見るためじゃない、朝ドラは絶対にハッピーエンドでなければいかんと、まるでハリウッド映画大好きみたいなことを思ってしまうのも、ひとえに朝という時間帯のせいかもしれない。97歳で死んだ祖母は、「朝機嫌、朝機嫌。」と言っては、朝の不機嫌を嫌った。周囲を不機嫌にさせるのは自分のせいなのにだ。まあ、そんなことはどうでもいい。

 『瞳』の最終回の最後のシーンは、ダンス教室に出かけるために自転車を漕ぐ「瞳」に幼稚園の園児が手を振り、彼女も手を振り返すというシーンだったが、その前、「瞳」が家を出る時の会話がとてもよかった。

 じゃあ行ってきますと「瞳」が言うと、「じいちゃん」が、どこそこのコロッケを帰りに買ってきてくれと言う。「へー、そこのコロッケ好きだったんだ。」と「瞳」は驚き、「知らないことがまだまだあるねえ。」と言う。そして続けて「退屈しないねえ。」と言って、自転車にまたがるのだ。

 この「知らないことがまだまだある。」と「退屈しない。」という二つの言葉が素晴らしい。何でもない日常がいいのだという作者の思想が、端的に表れている。「瞳」はプロのダンサーとして世に出ることを夢見て東京に出てきたが、それも叶わず、月島に住み続け、そこで子どもやお年寄りにダンスを教えることを自分の仕事とすることを決意する。それは一見挫折のようだが、ちっとも挫折ではないのだということを、この二つの言葉が保証している。

 ところで、スグレモノのレコーダーは、次の『だんだん』まで勝手にせっせと録画している。茉奈・佳奈があんまり好きじゃないので見るつもりはなかったが、結局昨日4日分を続けて見た。佳奈の舞子の化粧が似合わないなあと思いつつ、ワキの女優が結構いいので、これもまた見続けることになりそうだ。


 

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