51 主人公

2008.8


 諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。(『臨済録』入矢義高訳・岩波文庫)

 こういう本を普段よく読んでいるわけではないが、なにか面白そうなので結構たくさん持っている。先日たまたまこの文庫本を手にとってぱらぱらと開いていたら、この部分に目がとまった。さだまさしの『主人公』という歌を連想したからかもしれない。

 ここだけ読んでもきちんとした意味が分かるものでもないが、「ただ平常のままでありさえすればよいのだ。」とか「疲れたならば横になるだけ。」とか、魅力的な言葉が並んでいる。普通の日常生活をしていればそれでよろしい、ということであれば、それはそれで一時的には救われる思いがするが、それだけで人生上の難問はすべて解決とはいかないだろう。だがその後に続く部分は、もっと意味が深そうだ。

 「その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となる。」とはいったいどういうことなのか。

 ぼくらが、トイレに行ったり、服を着たり、ご飯を食べたりという、まさに日常的な行為をしているとき、ぼくらはその場で自分が主人公だと思っているかというと、まずそんなことはない。たぶん、エキストラぐらいの意識しかない。

 エキストラであるぼくが、何を着ようと、何を食べようと、どうでもいいことで、物語の進行にはなんの関係もない一風景にすぎない。しかし、ぼくが主人公であるなら、その普通の行為がひとつひとつ意味を持つことになる。これからの物語の進行を左右する一大事なのかもしれないのである。喫茶店で、アイスコーヒーを頼んだことがきっかけで、大恋愛に発展するかもしれないのだ。下痢でトイレに駆け込んだことで、昇進が見送られる事態に展開するかもしれないのだ。

 エキストラの日常的な行為には、ドラマの点景としての役割しかない。主人公の日常的な行為は、ドラマそのものだ。だから、その「場」を他の「場」と取り替えることはできない絶対的な「場」となる。というようなことなのだろうか。


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