45 「愛のムチ条例」なんてナンセンス

2008.6


 東国原知事が「愛のムチ条例」が宮崎県にあってもいいかもしれないなどと言い出したとテレビが報じていた。昨今の教育の荒廃、とくについ最近の秋葉原の殺傷事件などに関連して、「我々の時代は、オヤジや先生に殴られて育ったものだ。今の教育をどう思うか。」というような宮崎県議員の質問を受けて言い出したようだ。

 あきれてものが言えない。こうした程度の低い頭の知事が、今の日本で幅をきかせているのは今更嘆く気にもなれないが、こうした知事の発言に対して「いいんじゃないですか。そういうこと(愛のムチ)があっても。」などと平気でインタビューに答える主婦たちを見ていると、ほんとうにこの人たちはモノを真剣に考えたことがあるのかなあと改めて嘆きたくなる。

 「愛のムチ条例」などという愚劣な条例が、よもや宮崎県に誕生することはあるまいとは思うが、それでも念のために言っておきたい。なぜ「愛のムチ条例」は愚劣なのか。それは「愛のムチ」などというものが、この世に存在したためしはないからである。

 子供に対して、「愛」を感じるがゆえに、その子供を「ムチ打つ」ということは、あり得ないことである。「愛」と「暴力」は絶対に相容れないものだ。子供に暴力をもって何事かを教えるということは、その子供への「愛」からではなく、教える側の「自己満足」からである。勉強しない子供を殴るのは、勉強しない子供を「愛している」からではなく、自分が勝手にこしらえた「理想の子供」に子供を仕立てあげたいからだ。つまりは自分の思い通りにしたいだけなのだ。

 教師が生徒に暴力をふるうことを許されたらどうなるか。自信のない教師ほど、暴力にたよることになるだろう。そして権力者としての快感をたっぷり味わうことになるだろう。そうなったら、もう始末におえない。怒りにまかせて殴る。家庭の鬱憤をはらすために殴る。職場のいじめのはけ口で殴る。それでも「愛のため」と言っておけば許されるのである。こんな便利なことはないではないか。

 運動部の監督やコーチが、部員を口汚くののしる場面がテレビでよく流れるが、あれも基本的には「暴力」である。それで強くなれるのならいいじゃないかと世間の人は思っているらしいが、ぼくは、ああいうのも大嫌いだ。そういう「言葉の暴力」を許す風潮が「愛のムチ条例」などという発想を肯定する温床になっているのではないだろうか。


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