41 いかにもは嫌なのだ
2008.5
並ぶことが何より嫌いなのに、何と50分も並んでしまった。
東京国立博物館で開催されている「薬師寺展」に行ったのである。5月だというのに、真夏のような暑さで、ハゲ頭には刺すような日差しで、帽子をかぶってくればよかったと後悔したが、幸い同行した家内が日傘を持っていたので助かった。
帽子というのは、これからの季節には、それも特にハゲ頭には必需品だと思うのだが、これが何をかぶっても似合わない。昔、都立高校時代の教え子が、ぼくが絵を描くというのでベレー帽を贈ってくれたことがあったが、やはりどうにも似合わないので未だ使用せずにしまってある。父は帽子好きで、いつも鳥打ち帽をかぶっていた。父の遺品にはいろいろな種類の帽子があったが、父の頭は小さくてどれもぼくの頭には合わなかった。その後もいろいろ帽子を試してはみるのだが、どうにもピッタリくるものはない。で、普通の、何というのか分からないが、よく中高年のオジサンがかぶっているヤツをときどきかぶってはみるのだが、どうもいかにも中高年のオジサンという感じが漂うのが我慢ならず、常用には至っていない。
中高年のオジサン以外の何者でもないのだから、それでいいではないか、今更かっこつけてもしょうがないんじゃないか、と家内などは言い、理屈としてはまさにその通りなのだが、やはり心の中でガンとして抵抗するものがある。
昔から、「いかにも」というのが、ぼくはどうしても嫌なようなのだ。教師になりたての頃、「いかにも教師」といったファッションにものすごく嫌悪を感じた。それだけではない。「いかにも教師」らしい言動にも激しい反発を感じた。「教師らしくない教師」になろうと必死だった。だから、まわりの教師とのいさかいが絶えなかった。しかし、その姿は、傍目には「いかにも若い跳ね上がり教師」と見えていただろう。
それはそうと、50分も並んで拝観した「聖観音」ならびに「日光菩薩」「月光菩薩」は素晴らしかった。薬師寺で拝観するときは、やはり仏様として拝む気持ちになり、それが本来の「見方」であるとは思うが、今回の展示では、その彫刻としての見事さに息をのむ思いだった。
その周りを取り囲んで熱心に見入っているのは、「いかにも仏像が好き・歴史が好き」といった感じの中高年のオジサン・オバサンがほとんどだったが、このときばかりは「いかにも」は嫌だとかご託を並べているいとまはなかった。