34 うれしさと息苦しさ

2008.4


 ぼくが今いちばんしたいことは何なのだろうとふと考え、結局それは「本を読むこと」に尽きると思った。

 「日本短篇文学全集」という名全集がある。筑摩書房刊で、全50巻。第1回配本は、昭和42年11月で、「第25巻 佐藤春夫・芥川龍之介・井上靖」である。ぼくはこの1冊を、刊行と同時に買った。高校3年の時である。その中に収録されていた佐藤春夫の『秋立つ』という短篇を読んで、震えるほど魅了されたのをよく覚えている。

 その後数十年もたって、ぼくはその全集全巻を入手することができたのだが、先日その第1回配本の付録として付けられた小冊子「短篇への招待」を読んで、当時の文学への熱気を目の当たりにする思いをした。

 それは、その小冊子の冒頭に載せられた武田泰淳の『短篇小説の無限の面白さ』というエッセイだった。そこで、武田は短篇小説は「無数」でなくてはならぬと言い、こう続ける。「なぜ、無数でなければならないのか。それは、地球上の人間の人生が無数でなければならず、世界各国の作家の個性も運命も無数でなければならないからである。」と言う。そしてこうも言う。

 作家Aの一つの短篇から、作家Bの一つの短篇へ跳びうつるとき、まるで地球から月へでも上昇して行くような心のときめきをおぼえることがある。また同じ作家Cの、二つの短篇をつづけて読みすすむさい、広い海や深い谷を一気に躍りこえでもするかのような、うれしさと息苦しさを感じることがある。
 テレビのチャンネルをまわして、放送局からの電波をきりかえ、画面の変換を行うことは、一種の自由感があって楽しい。しかし、短篇のチャンネルは十や二十ではなくて、無数なのであるから、跳びうつったり躍りこえたりするさいの、うれしさと息苦しさも、またほとんど無限なのである。

 いい時代だったのだなあとしみじみ思う。テレビのチャンネルの切り替えに純粋な喜びを感じる現代人もいないだろうし、ましてこのように手放しで文学を礼賛することにためらいを感じる現代人も少なくないだろう。不幸な時代である。しかしそれでもなお、ぼくはこのような熱気を自分の中に回復し、もう一度文学の海に船出したいと切に思う。玉石混淆の現代文学の海を迷いつつ泳ぐこともまた楽しいことだが、それにもましてそれこそ無限に広がる文学の古典が、限られた時間の海の中にどこまでも広がっていることを思うとき、思わず「うれしさと息苦しさ」を感じるのだ。

 

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