33 装丁について

2008.3


 装丁家の菊地信義の最新刊「新・装幀談義」を読んでいたら、自分が、本の装丁というものにずいぶん前から興味を持っていたことに改めて気づかされた。

 最近のようにネットで本を買うことが増えてくると、そういうことはないのだが、書店での衝動買いの場合、その装丁が大きな理由になっていることが結構多い。内容など二の次ということもある。菊地信義は「装幀の目的は、本を目にした人の心に、読みたいという思いを起こし、真に読むという場へ心をいざなうことです。」とこの本の中で言っているが、ぼくの場合は、時としてその「目的」を逸脱して、ただその本が欲しいという段階でストップしてしまい、手に入れるとただその本を飾っておき、ときどき取り出して眺めて満足してしまうということもしばしばである。

 ネット書店で本を買う人は、タイトルや著者名で本を注文するわけで、本の厚みや重みといった手触りから作品と出会うことはありません。やはり、本とまるごと出会える場所、向き合える場所は書店だと思います。書店の偶然を伴った出会いによって本が買われる、そうした機会を捨てるわけにはいきません。(上掲書)

 こう言われて、しみじみとそうだそうだと実感する。もちろんネット書店での「偶然の出会い」も数多くある。しかし「本の手触り」はそこにはない。装丁も、画像としては見ることができる。けれども、紙の質とか肌触りとか光の反射による表紙の色の変化などは知るよしもない。まして、本文用紙の色合い、文字組みなどは想像すらできない。

 そんなことはどうでもよろしい。本は読めればそれでいいという考え方もあるだろう。そういう本もある。けれども「モノとしての本」に魅力を感じ、その本を手にして、なでたりさすったり、時には頬ずりさえして本を愛することの喜びは何ものにも替えがたいものではないか。

 ケータイ小説なるものがはやっているようだが、その多くは文学の名に値しない、薄っぺらな「作文」でしかない。いや「作文」ですらないものがほとんだ。それらの「文字群」は、ケータイの小さな画面と手軽さが必然的に生み出したものだともいえるだろう。

 確実に時代は「文学」から遠ざかっている。「文学」が何を意味するかを説明もしないでこんなことを言ってみてもはじまらないが、いずれにしても「文学」の復権は、装丁を抜きには考えられないのかもしれないと、とりあえず言ってみたい気がする。

 


(注)「装丁」は、「装幀」とも書きますが、「装幀」は本来は書画を掛け物や額に仕立てることを意味します。「装丁」は昭和31年の国語審議会で決められた書きかたで、もともとは「装釘」という字でした。


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