30 問題は躁なんです

2008.3


 『問題は、躁なんです』(春日武彦著・光文社新書)という本を、その題にひかれて買ってすぐに読んだ。

 読む前から、「そうなんだよなあ」と洒落ではないが納得してしまったような気分もあった。題だけで分かるという本もあるのである。日頃からぼくが感じていた何か、あるときはイライラし、あるときは不安になり、またあるときはひどく興味深くも思っていた何か、それが「躁」のひとことで、ひもとかれてゆく感じがあった。「問題は躁なんです」か、なるほどそうだ、と。

 落ち着いて、静かであること、それがもっともぼくには好ましい状態である。雨にしっとりと濡れた京都のお寺の庭とか、冷たい朝の空気に満たされた林の中とか、夕暮れの迫った海岸にかすかな音をたてて打ち寄せる波とか、しんと静まりかえった教会の中で一心に祈る人とか、そういうものにこそぼくは限りなく心をひかれる。

 それなのに、ぼく自身の日常はどうなっているのか。どこかそうした落ち着きとか静けさとかいうものから逸脱し、次から次へとチャレンジといえば聞こえはいいが、何だか手当たり次第にゴチャゴチャとやっているという感が拭いきれない。他人さまから見ると、いろいろやることがあって楽しそうですねということになる。しかし毎日が楽しくてしかたないという心境はぼくには無縁なのである。

 はしゃいでいる人間を見るとイライラする。騒がしい人間も嫌いである。自慢ばかりしているヤツを見るとはり倒したくなる。それなのに、ぼく自身は、いつも相当はしゃいでいるし、騒々しいし、自慢タラタラである。やはり問題は「躁」なのである。

 春日は言っている。「うつが自然で躁が不自然、これが人の心の基本的な構図であるように思われる。嫌な話であるけれど。」と。

 「躁」とは何かは、この本を直接読んでいただいたほうがよいけれど、確かに「躁」的な言動や状況にはいつもどこかに不自然な感じが伴うものだ。早い話が、「いつも楽しそうにニコニコ笑っている」人間よりも、「いつもなんかつまらなさそう」な人間の方が、「自然」な感じがする。

 毎朝、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聞きながら、ブログを書きまくるという近年の茂木健一郎なども、どこか不自然である。「躁」の匂いがする。

 春日自身、老年期の自分にとっての不安は躁と認知症だといい、特に躁はまずいと、あとがきで言っている。それはぼく自身の不安ともどこかで重なっている。


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