19 「小唄のレコード」という随筆

2007.12


 最近読んだ本の中で、九鬼周造の随筆のことに触れて、何でも林芙美子ともう一人の男が家に来たとき、三人で小唄のレコードを聴いたという話が紹介されていて印象的だった。

 それで、『九鬼周造随筆集』にならその話が載っているのかもしれないと思って入手すると、果たしてあった。題して「小唄のレコード」。

 もう一人の男は成瀬無極というドイツ文学者。三人で話していたことは「日本の対支外交や排日問題」「支那女性の現代的覚醒」などで、林が北京からの旅の帰りに京都の九鬼邸に立ち寄ったときとて、そういう話題になったということだろう。そのうち、林が小唄が好きだというので、レコードをかけて三人で聴いた。その後、こんな風に書いてある。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」
と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、
「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」
といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、
「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」
と私に詰(なじ)るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の眼から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。無極氏は、
「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」
といって感慨を押さえ切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは黙って下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。

 この引用部だけで全体の三分の一になるほどの短い随筆だが、不思議に心ひかれるものがある。

 外国から帰って来たばかりで興奮気味の林芙美子が、ふと小唄を聴きたくなる。レコードをかける。しみじみいい、と女は思う。男は、いいけれど、おれにはもっと大切なものがあると内心思う。けれども、女の素直な言葉に男たちは「裸」になってしまう。涙が自然ににじむ。

 この後九鬼は、小唄の魅力を語り、こう書いて結ぶ。

ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる。

 住みたいけれど、住めない。住みきれない。住みきれないけれど、ときどき「情感の世界」に浸ることはできる。「ほかのことはどうでもかまわない」と思わせる「情感の世界」をぼくらはどれだけ知っているだろうか。


 

九鬼周造=1888〜1941 哲学者。東京生まれ。京大教授。「『いき』の構造」「偶然性の問題」「西洋近世哲学史稿」などの著述がある。
林芙美子=1903〜1951 小説家。山口生まれ。多くの職を転々としながら、自伝的小説「放浪記」で文壇に出た。
成瀬無極=1885〜1958 東京生まれ。ドイツ文学者。三高教授を経て京都帝大教授。トーマス=マンやイプセンなどを翻訳し、戯曲もかいた。日本ゲーテ協会を創立。戦後は慶大教授。


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