15 酒はうまいし、ねえちゃんはきれい?

2007.11


 これでもカトリック教徒の末席をけがす身なので、たまにはミサに出ることもある。先日列席した孫の七五三のミサ(カトリックでも七五三のお祝いをするのです。)の説教で、バスク人の神父さんが「天国」について語った。

 わたしがアメリカにいたとき、子どもたちに向かって「天国とはどんなところですか?」と聞くと、「アイスクリームがいっぱいあるところです。」と必ず答えたものです。でも笑ってはいけません。皆さんに同じ質問をしても「きれいな自然があるところ。」とか「みんなが喧嘩しないで仲良くしているところ。」とか(「酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ。」とはさすがに神父さんだから言わなかったけれど)、そういう答えが返ってくるでしょう。それは子どもにとっての「アイスクリーム」と同じです。けれども、天国はもっと素晴らしいところです。それは人間には想像することはできません。想像がつかないくらい素晴らしいところなのです。

 神父さんは、ニコニコ笑いながら、「想像できないほど素晴らしいところが天国なのだ。」ということを繰り返した。だからどうしろ、とはいわなかった。「天国へ行けるように努力せよ。」とも「悪いことをすると地獄におちるぞ。」ともいわなかった。たぶん最後にはいいところへ行けるのだから心配しなさんな、ということだったのだろう。

 そういうことだったとして、では、どうすればいいのか、が問題のはずである。心配しないでいい、というのは分かった。でもこの人生の難局をどう乗り切るのか、たまった借金をどう返済したらいいのか、自分を裏切って逃げた恋人のことをどう考えればいいのか、そういう具体的な問題には何も答えない。ただ、最後はいいところに行けるのだから心配するなという。

 いいかげんなもんだとマジメな人はあきれるだろう。けれども、ここがいちばん肝心なところなのだ。最後はいいところへ行けるのだから心配しなさんな。具体的なことは、自分でしっかりおやりよ、責任はわたしがとってやるよ、ということなのだ。これが、天国に行くためには「殉教せよ。」となると、話が穏やかでなくなる。自爆テロはそこから生まれる。

 天国は酒がうまくてねえちゃんがきれいなんだろうぐらいに思っておいて、あとは日々の暮らしを頑張りましょう。これがカトリックの教えなのだとぼくは勝手に思っている。

 思えば「明日は明日の風が吹く。」というのは、もともとイエスの言葉だった。


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