10 極楽トンボの後始末

2007.10


 父方の祖父というのは静岡の人で、漁師だったらしいが、いつのことだか横浜に出てきてドックで船のペンキ塗りなどをしているうちに、横浜でペンキ屋をはじめ、自分で看板の字を書いたり風呂屋の背景画を描くことを生業とするようになった。その後ペンキ屋の親方となったのだが、その跡を継がされた父の代になって、「山本塗工株式会社」という会社となり、数人の職人を使って本格的な塗装業を営むようになった。ぼくはそういう意味では三代目だったわけだが、所詮ペンキ屋などという稼業は、儲かる仕事じゃないということからか、父は跡を継げとは決していわなかった。自分が好きで、できなかった学問を、息子にはさせたいという気持ちが強かったに違いない。

 それに後で知ったことだが、「山本塗工株式会社」も、倒産しそうになるほど経営は厳しいものがあったらしい。「あったらしい」なんて三代目がのんきなことをいっていてはしょうがないが、ぼくは自分の家の経済状態にほとんど無関心だった。というか、そういう危機感を誰もぼくに感じさせなかった。そういう意味では偉い親たちだが、子供のほうは想像力が足りなかったとしかいいようがなく、感心できる話ではない。よく父がため息混じりに「おまえは極楽トンボだからなあ。」と言っていたその気持ちが、今になってしみじみ分かる。

 しかしぼくが危機感を持たなかった理由のもうひとつに、父の道楽もおおいに関係していたことも確かだ。父は多趣味で、高価なカメラを買ったり、高価な東洋蘭やサボテンを集めてみたり、そうかと思うと突然金魚を飼い始めたりしていた。

 盆栽にも凝った時期があって、父が死んだ後、わずかだが盆栽の鉢が残された。その盆栽の中にブナの盆栽が二鉢あった。これはおれが種を蒔いて作ったんだと自慢していたから、実生の盆栽で、既に30年近くたっている。母がそれを何とか守ってきたが、さすがに管理が大変だということで、昨年ぼくが引き取った。

 しかしこの春、二鉢のうち一つの方は見事に芽吹いたのだが、もう一鉢のほうがちっとも芽吹かない。ほとんど兄弟みたいに育ってきた木なのにこれはおかしい。ひょっとして枯れてしまったのかと気が気ではなかった。毎日芽をみては、枯れちゃったのかなあ、何とか生きててくれないかなあと、気をもんだが、半月も遅れてようやく芽吹き始めたので心底ほっとしたのだった。極楽トンボもそうそう暢気ではいられないのである。

実生(みしょう)=つぎ木、さし木などの栄養繁殖によらないで、種子から発芽した植物のこと。


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