5 浅く浅くと出て行く

2007.9


 年若い時分には、私は何事につけても深く深くと入って行くことを心掛け、また、それを歓びとした。だんだんこの世の旅をして、いろいろな人にも交わって見るうちに、浅く浅くと出て行くことの歓びを知って来た。

 こんなことを島崎藤村は「六十歳を迎えて」という随筆で書いている。分かりにくい言葉だ。

 「深く深くと入っていく」というのは分かりやすい。ぼくも若い頃は「深さ」をひたすら追求した。「深い」ことはよいことだったし、「浅い」ことは絶対に悪いことだった。「おまえの考えは浅い。」という評価は何としても避けなければならなかった。だから何事につけても「深く、深く」と心掛けたつもりだ。そういう点では藤村とまったく同じだから、よく分かる。

 しかし「浅く浅くと出て行く」とはどういうことなのか。これが分かりにくい。「浅く考える」のではなさそうだ。「出て行く」というが、どこへ「出て行く」のか、と考えるとはたと困ってしまう。

 ちょっと考えると、何事に対しても「浅く」接して、そしてすぐにそこから離れてしまうということのように受け取れるかもしれない。けれども、それでは何にもならない。少なくとも「歓び」にはほど遠いだろう。

 そうではなくて、何事に対しても「浅く」入る、つまり自分を忘れてすっと入り込む。そのことを「出て行く」といっているのではないか。つまり、「自分」を「出て行く」のである。

 花なら花を見たときに、それに対して自分の思いをそこに深く寄せ(つまり感情移入し)、そこから受けた自分の感動を大事にする、あるいはそれを表現する。これが「深く深くと入って行く」態度だ。だからよほど強くひかれる花でないとそういう対象にはならない。

 それに対して、何気ない花にでもちょっとした興味を持ち、ああいいなと思ったその瞬間、「自分」はその花の中へ「出て行って」しまう。つまり自分なんてどうでもよくなる。これこそが「浅く浅くと出て行く」態度だ。

 「自分探し」がはやっているが、一方では「自分探しなんてもうやめよう。」という声もようやく聞こえてくるようになった。だがそういう声はずっと昔からあったのだ。「自分の中へ入っていくな。外のものに興味を持て。」ということは、加藤周一も、ラッセルもいっていたことだ。

 いずれにしても、軽やかな好奇心、自分への無関心、これが幸福の秘訣のようだ。「自己愛人間」たるぼくには、なかなか難しいことではあるが。


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