2 「傾聴ビジネス」

2007.8


 年寄りにはどんな価値があるか、なかなかわからないのが今の時代らしくて、例えば柳田国男の「古老」という概念を持ちだし、「現役時代の記憶を保持している老人が時機が来てそれを話し始める」ところに価値を見いだせそうに思ったけれど「そうした語り部のような古老は、時代(情報化)が進むにつれて、民俗学・文化人類学・言語学のインフォーマットや、老職人が身につけた技を後継者のために伝える」といったような場面でしか意味をなさない。それどころか「今では、ビジネス創造学科の学生が、ステージに立った老人の昔語りを熱心に聞いてあげて盛んな拍手を送り、金をとる、という傾聴ボランティアをビジネス化した『傾聴ビジネス』を考えついたりする時代だ。」と長沼行太郎が書いている。(*1)

 昔語りはもちろん老人の得意技で、たいていは「おじいちゃん、その話はこれで100回目ですよ。」という家族の失笑をかうなかで延々と続けられてきたものであって、「老人」とはまだたぶん言えないぼくでも、その手の失笑は何度もかっている。失笑しながらも、いちおう聞いたふりをしてくれる家族がいなくなると、老人は金を払ってでも昔語りを聞いてもらいたくなるのだろうか。

 壇上で盛大な拍手をもらって感激する老人と、これでまた儲かった、それにしても面白くもない繰り言だったよなあとささやきあう若者たちをイメージすると、何ともせつない気持になる。まったく嫌な時代になったものである。

 それにしても「傾聴ボランティア」とか「傾聴ビジネス」とかいったものがこの世に存在しているとは、うかつにも知らなかった。

 E・M・フォスターは「英知は伝えることができない」と考えていて、その理由を「語るのは老人の口で、聞くのは若者の耳なのだから。」と書いているそうだ。(*2)けだし名言である。若者は「英知」には無関心だ。「英知」が単なる知識ではなく、生きる上での深い知恵だとするなら、それは歳を重ねて初めて納得されるものだから。「英知」は「老人の耳」にこそ語りかけるべきものなのだろう。

 「傾聴ビジネス」はそのことをちゃんと証明している。若者はだれも金を払ってまで老人の昔語りを聞こうとはしない。逆に「聞いてやる」ことで金を稼ごうとまでするというわけだ。

 けれども年寄りの昔語りに「英知」が潜んでいる保証も実はないのだから、「傾聴ビジネス」が成り立つのもまた仕方のないことなのかもしれない。

 



(*1)『嫌老社会──老いを拒絶する時代』ソフトバンク新書(2006年)
(*2)黒井千次『老いるということ』講談社現代新書(2006年)の中の記述。

 

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