97 複雑なるかなコンプレックス

2007.7


 人間というものはコンプレックスの塊である。

 もともと「コンプレックス」という語は「複雑に入り組んだ」というような意味を持つ語なわけだから、人間が、それもその感情が「複雑に入り組んで」いるのは当然にしても、精神分析のほうでいう「意識下に抑圧されて存在する、複合した感情・情緒のしこり」という意味での「コンプレックス」も、それがない人間というものなど考えられないし、ましてもう少しこなれた訳語でいう「劣等感」なら、誰でもひとつやふたつは持っている。

 誰もが劣等感を抱えて生きているのに、そして人間というものはそういうものだと誰もが知っているはずなのに、周りを見ると、そういう風には見えず、みんな堂々と胸をはって生き生きと生きているように見えて落ち込んでしまうというのもまた人間というものの常である。

 中学・高校を通じて、まるで神様のように尊敬していたある先輩が、数年前、創立記念式典だったかの講師として学校に来たとき、その話を聞いてひどくびっくりしたのは、その人が高校時代ある劣等感に悩まされていたということだった。一体何だったのだろうと興味津々で聞いていたら、何と足が短いということで真剣に悩んでいたというのだ。ぼくはその先輩を尊敬するあまり、その字までもまねたくらいだから、彼の足が短いなどと思ったことはなかった。「長い」と思ったこともないのも事実だが、そもそも足が長かろうと短かろうと、そんなくだらないことでその先輩が悩むなんてことはあり得ないと思っていたはずだ。

 劣等感というのは、どういうことに対しても持ちうるのだとその時しみじみ思った。はたからみれば、何だそんなこと、気にすることないじゃないかと思うような些細なことでも、本人にとっては、大問題なのである。

 ぼくなどは、劣等感の見本市のような人間だから、端から数え上げればキリがないが、その最大級のものが「字が下手だ」、とくに「筆で字を書けない」というものだった。字をまねた件の先輩の字が、ひどいくせ字だったこともあって、よくいえば「個性的」なのかもしれないが、「まともな字ではない」ということが、国語教師という職業もあって、常に劣等感として心に巣くっていたわけである。

 劣等感はあこがれの裏返しだから、ぼくは毛筆を自由にあやつって美しい字を書く人たちをいつも羨望の眼差しで見ていたが、またそれは時として憎悪に変わることもあったのだ。複雑なものである。

 


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