92 記憶が重なるとき

2007.6


 子どもはいつも大人に裏切られる。裏切られた気持ちは生涯忘れることができない。

 芥川龍之介の『トロッコ』はそうした子どもの心を描いた名作である。

 工事現場のトロッコに乗って遊んでいると、二人の工事人夫がやってきて、これから走らせるから乗せてやろうかという。子どもは喜んでトロッコに乗る。子どもを乗せたトロッコは心地よく疾走する。しかしどこまで走っても戻る気配がない。途中の茶店で休んだあと、人夫たちはおまえはもう帰れという。彼らはこの先まで行き、そこに泊まるのだという。子どもは途方に暮れるが、どうしようもない。子どもはひとり夕闇迫るトロッコ道をひた走る。「ただ命さえ助かれば」と思って走る。草履に石が食い込む。人夫にもらったお菓子も邪魔だからすてた。やっとのことで村にたどり着いて家に向かって走っていると、近所の大人たちが声をかけてくる。けれども子どもはそれに答えようともしない。そして家に着いたとたん、ワッと泣き出してしまった。というような話だ。

 この話がぼくが中学1年生の時の国語の教科書に載っていて、授業でやったときのこと。担当の先生は阿部先生という東大出の怖い先生。先生が質問をした。「どうして村の大人たちにこの子どもは返事をしなかったのか。」そんな質問だった。同級生たちは、「疲れていてそれどころではなかった。」とか「聞こえなかったのではないか。」とかいったようなことを答えたように思う。先生は渋い顔をしてなかなかそうだとは言わない。ぼくは友達の答えはなんか違うなあと思ったので、手を挙げた。「怒っていたんだと思います。」と答えた。そのとき、先生は満足そうに大きく頷いた。あの時は嬉しかったなあ。

 と、先日、中学以来の友人と話していたときのことだ。「ぼくは手を挙げたんだ」というところにさしかかったとき、彼は「ちょっと待て! 今、急に思い出した。そうだよ。オレの前の方の席のヤツがすっと手を挙げて、びっくりするような答えを言ったの、よく憶えている。そうか、それは君だったのか。」そういって感慨深げな顔をした。

 どこか薄暗く、ひんやりとした教室。ドキドキしながら手を挙げるぼく。みんなの驚いたような顔。先生の「そうだ」という低い声。そうしたぼくの中にある記憶と、友人の記憶が重なった。今までぼくだけの記憶だったが、その記憶が不思議な厚みをおびてぼくらの前に広がった。ほんとうに稀有の瞬間だった。


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