89 芸人と教師

2007.5


 「笑い」というものが好きだ。「お笑い」と呼ばれる芸能全般はもちろんのこと、ちょっとした笑い話から駄洒落に至るまで、笑えればなんでもいいというところがある。人を笑わせることも大好きで、つまらないギャグでも笑ってもらえると実に嬉しい。だから授業などでも、こんなところで冗談を言っている余裕はないというときでも、つい言ってしまい、授業が脱線したりする。まじめに淡々と授業を進めていれば一番無難だし楽なのだが、それでは「お客様に申し訳ない」というような変な考えがあって、それでは教師というより芸人ではないかと言われそうな気もするが、もしそう言われたら、さよう、教師は所詮は芸人なのであると開き直るに違いない。いや、そういっては芸人に失礼というもの、教師は芸人を目指しているのです、というべきなのだろう。

 人は納得しないと笑わない、ということに人はあまり注意を払わない。しかしこれは案外重要なことなのだ。英語がよほど達者でないと、英語のジョークに笑うことはできない。「笑い」は「同意」なのだ。もちろん、お愛想笑いというのもあるから油断はならないが、何かを話して、相手が笑ったとすれば、ある程度の共感ないしは同意を得られたものと判断していいだろう。だからこそ、授業では、笑いが求められる。4+4は8ですよということを教えるのに「笑い」は必要ないが、このときの登場人物の気持ちはこれこれで、まさかこんなことではないものね、というような説明をしたとき、笑いがおこれば、分かってくれたかと一応安心できるというものだ。

 もっとも、そういうレベルの笑いではなくて、ただ単に可笑しいといって笑う「笑い」がいちばんいいから、つい「納得」とか「共感」とは関係のないギャグを言っては笑いをとろうとしたりしてしまうし、それで受けたときは妙に嬉しい。そういう意味では、ぼくはやはり芸人に憧れているのだといえるだろう。

 芸人としての教師にいちばん近いのは、漫談・落語・講談といった「ピン芸」だろう。たった一人で世界を作ってしまうこれらの芸の中でも、その世界の完結性においては落語の右に出るものはないだろう。最近とくに落語を聞くことが多いのだが、そういうとき日本人に生まれてよかったとしみじみ思う。

 「国を愛する心」などというものは、そういうところからじわじわと感じるものでないかぎり本物ではない。そして本物でない「愛国心」は常に危険なのである。


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