85 エライのは誰か

2007.4


 森進一が『おふくろさん』を歌うときに、別の歌詞を取り込んで歌っているのを聞いた作詞家の川内康範が激怒し、「二度と歌ってはならぬ」と言っているというニュースは既に旧聞に属するが、それに関しては、耄碌した川内の強硬な姿勢はいかがなものかとか、だいたい一介の歌手に過ぎない森が思い上がっているのだとか、まあ賛否さまざまな意見が飛び交ったようである。「歌は誰のものか」といった大上段に振りかぶった意見もあった。

 一つの歌を巡っては、作詞家・作曲家・歌手の三点セットがどうしても必要で、歌謡曲の場合はその三人が別々だというのが普通なわけだが、この中でどうも歌手という存在が卑屈になりがちで、私どもはただ歌を歌わせていただいているに過ぎませんという歌手もいる。こんなに素晴らしい歌をいただいて、幸せですと言って、とにかく作詞家・作曲家の先生にはまるで頭があがらない。だから、『おふくろさん』は森進一の歌なのだなんて言ったら、それこそこのフトドキモノということになるのだろう。

 しかし、前々から思っているのだが、こと歌謡曲においては、作詞家・作曲家・歌手の三点セットの中で、だれが一番エライかというと、実は歌手なのではなかろうか。どんなにいい歌だって下手な歌手が歌ったら目も当てられないことになることは「のど自慢」を一度でも見ればわかることだ。歌はごまかしがきかない。歌は代わりに誰かが歌うわけにはいかないのだ。

 そこへいくと、作詞家・作曲家はいずれも「先生」として歌手からも崇められているが、どうもうさんくさい存在である。そもそも、作詞にしろ作曲にしろ、当人がひとりで作ったかどうかの確証がない。盗作のことを言っているのではない。「代作」のことを言っているのだ。無名の人の作詞したものを自分の名前で出してレコード大賞をとったヒトもいるらしい。もちろんその無名の人は納得ずくで、それ相応の報酬を得ているわけだろうが、そうなると著作権も何もあったものではないではないか。人のフンドシで相撲をとっている作詞家・作曲家がどれほどいるかしれたものではないのだ。

 『おふくろさん』にしても、歌詞だけ読んでみれば、別にたいした詞ではない。森進一のあの独特の声と節回しがあればこそ、あそこまで心に染みる歌となったのだ。作詞家川内康範は、歌の材料を提供したに過ぎない。「オレの歌だから、歌わせない」なんて言えた義理ではないと思うのだが。


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