79 仮の宿り

2007.3


 これも「団塊」向けなのか、近ごろ旅番組が多い。若者向けのドラマやバラエティーにはとてもついていけないから、ぼんやり居眠りしながら見るにはつい旅番組となってしまう。「団塊」を拒否しながら、「団塊」そのものである。

 そうした旅番組では、当然のことながら旅館なりホテルなりに泊まることになるのだが、まずは部屋に通されると、わー! 素敵なお部屋! と叫んでから、窓辺に走り寄って、わー! 何この景色! すごーい! などと叫ぶことになっている。窓からは海が一望だったり、木々の梢が涼しげに茂っていたり、渓流が眼下に見下ろせたりする。あとは部屋の内部、豪華なベッドやら、洒落たバスルームやら何やらが紹介され、食事に移る。料理のずらりとならんだテーブルが映し出されると、こんなに食べたら大変だと夫婦で異口同音に呟くことになる。

 芭蕉は奥の細道の旅に出発するとき、千住まで見送りに来てくれた友人たちとの別れを、こんな風に記している。

千住という所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ、胸にふたがりて、幻のちまたに離別の涙をそそく。

 この最後の「幻のちまたに離別の涙をそそく」とはどういうことか。「幻のちまた」というのは、「幻のようにはかないこの世」というほどの意味で、要するに我々が生きているこの世ははかない、ということだ。だから、どうせはかない、どうせみんないつかは死んでしまうこの世なのだから、友人との別れなんてどうってことはないはずで、涙を流すほどのことでもないのだが、それでもやっぱり寂しくて悲しくて泣ける、ということである。

 また方丈記では、この世を「仮の宿り」として、こんな風に記している。

 仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

 「仮の宿であるこの世で、いったい誰のためにあくせくし、どういうわけで豪華な生活に目を奪われるのか。」というほどの意味になる。

 「この世」自体が「仮の宿り」つまりは「所詮そこには永住できない居場所」であるのに、旅の宿は更に二重の意味で「仮の宿」である。一泊数万円もする部屋に泊まることが、どうしてそんなに手放しで嬉しいのかとつい思ってしまうわけだ。

 まあいいじゃないの、楽しめばという思いもある。芭蕉風にいえば、「仮の宿りに、感激の嬌声をあげる」とでもなろうか。

 いずれにしても、ぼくには「仮の宿りの中の仮の宿り」に数万円も払う気(力?)のないことだけは確かなことである。


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