76 奥行き

2007.2


 間口は狭いけれど、奥行きが深いもの。そういうものが好きで、いつも憧れている。

 飲食店でも、やたら間口は広いけれど、奥行きがなくて平板な店内ではがっかりだ。入り口は狭いのに、中へ入ってみると、おやっと思うほど奥のほうへ部屋が広がっていたりすると、なんだか嬉しくなってしまう。

 家内は気持ち悪いというが、蟻の巣というのも、そういうものの代表だ。蟻の巣セットというものがあって、薄いガラスケースに、色のついたゼリーのようなものが詰まっていて、これに蟻を入れると巣の様子がよく観察できるというものらしいが、確かにこれはちょっと気持ち悪い。

 図書館のカードケースもそういうものの一つだ。引き出しの形はみな同じでそっけないが、そのひとつを引き出すと意外と奥行きがあって、本の名前の入ったカードがぎっしり奥まで並んでいる。最近の図書館では、コンピュータによる検索が一般的で、それこそあっという間に探している本に辿りつけるけれど、どこにも奥行きが感じられない。

 ひょっとしたら、IT技術というものは、ものごとの奥行きを奪ったのかもしれない。

 たとえば新聞。紙の新聞の紙面というものは、1面から始まって、政治面、経済面、スポーツ面、文化面、社会面、そしてテレビ欄というように、それぞれの記事に、いちおうの序列のようなものがあって、スポーツ記事でもそれが1面に載れば、おっこれはすごいことなんだなとか、こんなことが1面に値するのかとか、いろいろ思うことがある。しかし、ネット上の新聞の場合、いちおう紙の新聞のような区分はあるけれど、記事はいつも同じモニターの上に、同じ大きさの活字で現れるから、平板の感を否めない。紙の新聞のいわゆるベタ記事と、1面トップの5段抜きの記事との区別は、文字数の違いでしかない。

 しかし何といっても、「間口は狭いけれど、奥行きが深い」といえば、本だろう。本はまるで京都の町屋のように間口の狭いたたずまいで本棚に並んでいる。それを指で引き出すのは、まるでひとつの宇宙を指で引き出すようなものだという比喩は、三島由紀夫のものだったが、言い得て妙というものだ。

 それにしても、昨今は、間口は狭いのはいいとしても、ちっとも奥行きのない本ばかりが幅をきかせているのは、何とも情けないことである。こういうときは、とにかく、古典を読むにしくはない。時として奥行きが深すぎて出てこれなくなる恐れはあるが。


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