74 『団塊パンチ』ってどうなの?

2007.2


 来年から団塊の世代の大量定年を迎えるとかで、このところやたら「団塊」という言葉がマスコミに飛び交っている。

 去年、本屋で『団塊パンチ』という雑誌を見かけたが、つい最近の新聞にその最新号の広告が載っていて、特集に「アグネス・ラム」だの「吉永小百合と浅丘ルリ子」だのという文字が躍っていた。こういうのを見た「団塊オヤジ」は、いったいどう反応するのだろうか。「お、懐かしいなあ。」と思わず手に取る者と、「何やってんだ」とそっぽを向く者とにきっと別れるに違いない。「団塊」というと、何だかみんな「カタマリ」になって、何でも一緒になって行動するのが好きだというイメージになってしまうが、そんなことはたぶんない。

 たぶんない、なんて曖昧なことを言っても仕方がないので、自分のことだけを言うが、ぼくは「何やってんだ」派である。ぼくは昭和24年生まれのれっきとした真性の「団塊世代」だが、何をやるにも群れるのが嫌いだ。

 いや、ほんとうはそうではない。たぶん、ほんとうは、群れていたいのだと思う。本当に気のあった仲間と、和気藹々と遊んでいたいという気持ちが、ぼくの心のどこかにある。けれども群れていると、自分がその群れから知らず知らずのうちの脱落していってしまうのをどうすることもできないのだ。このことは、ぼくにとっては根本的なことで、そしてその心的傾向は、年をとるとともにますます激しくなってきている。

 定年になったら、なるべく多くの仲間をもって、楽しく暮らすことが長生きの秘訣ですなんてことがよく言われるが、それがほんとうなら、ぼくはきっと長生きしないだろう。それならそれでいい。

 思えば、中学生以来、他人と同じことはしたくない、というのがぼくの行動原理だった。「団塊の世代」はまた「ビートルズ世代」だなんてことが言われるが、確かにビートルズ来日はぼくが高校生の時のことだった。けれども、ぼくはビートルズなんて眼中になくて、民謡のレコードを聴いて練習に余念がなかった。そして、遠足のバスの中などで民謡を歌っては、同級生や教師の顰蹙をかっていた。

 まわりが「団塊」となって、かたまっていたからこそ、その「群れ」を意識的に避けたのかもしれない。そういうわけだから『団塊パンチ』などという露骨な商魂むきだしの雑誌には手も触れたくない。しかしこれもまた、考えようによっては、典型的な「団塊世代」の姿なのかもしれない。


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